キリスト教が始原性を争う宗教だと私は学生時代から感じている。始原性というのは世界創造の主を立てたがる宗教のことである。仏教では始成正覚を得た釈尊といった場合にはインドに生まれ30歳成道の仏をいうのですが、この場合にも始めを立てるのです。世界で初めて仏になったその始まりです。ところが教えが進んでいくとこのようなこの世で生まれて三千年のその昔にインドの釈迦族の皇子として生まれ出家し修行して30歳で菩提樹の下で牧女の捧げる牛乳を飲み清浄として悟りを開いたという一番成道の考えは、否定されれくるのです。そして実は生まれる前から既に仏であったのだという過去三千塵点劫という天文学的数字の昔の昔しから仏であったとし、前の教えである始成正覚の釈尊観を打ち破るわけです。ある意味では衆生の小乗の教えへの執着を解くわけです。この過去世からの仏を表すのが法華経迹門の教えなのです。ところが、法華経本門ではこの法華経迹門で説いてきた仏の生命の永遠性を表現したにも関わらず、またこれでは不足だとこれを否定するのです。過去三千塵点劫よりも昔の過去五百塵点劫という過去から実は釈尊は仏になっていたのであったのだという教えです。数字的には五百塵点劫は三千塵点劫よりも少ない数字ですが、これは久遠元初という初めの始めの過去から見ると五百塵点劫の方がより過去だということなのです。そこまでは一般仏教でも理解ができるのです。しかしそれらの過去というのは始原性の争いでしかないのです。日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の中に久遠元初の当初を立てられました。これは相対的な絶対過去という言い方をここでは便宜的にしておきたいと思います。これは始原性の相対的な争いを超えた絶対過去あるいは無初無終ということです。キリスト教の神や小乗経の仏は始成正覚なのです。だから生命の永遠性や過去・現在・未来に渡る三世の生命の因果律が暗いだけでなく、突如として現れ出る奇跡の神事が平気で因果も説かれずに起こるわけです。こういう世界観というのはキリスト社会の西欧では一般的です。難民が欧州共同体に流れ込み助けなければならないと言って救助するが、いざ自分たちの生活がこれで脅かされるとあっさりと止めてみたりする。因果がわからないで表だけの現象しか見えてないからです。キリスト教の思考法に毒されているために、その原因を問わないし問えなくなっているわけです。
キリスト教では世界はその初めにはなにも無かったと説いている。つまり真っ暗であって、そこに神が光をもたらしたという。初めを無と説くと有はどこから生まれ出たのかという問題があるわけです。光は光の中では光らないのです。闇の中でこそ光は光るのです。世界の始めは真っ暗で何も無かったというが、その闇が光を乗せる媒体になっているわけで、無は無でもないし光が最初というのではないのです。だから神が光を最初にもたらしたというのは誤っているのです。先に存在した闇の中に光があったからこそ光は光ることができたのです。キリスト教の言うように神が最初に光をもたらせたのではないのです。つまりキリスト教は原初を立てている誤りだけでなく、蘊在とか十界互倶、一念三千の法門を知らないからです。原初を立てるということは終わりを立てるということです。つまり終末論になるわけです。つまり世界認識は直線的になり、ある時始まりある時に突如として終わるということになる。本当は三世の因果は切れてないのです。ところがキリスト教では神の意思が総てに先立つ創造の主であって人間はその従属物になってしまっている恐ろしい宗教だということです。従うか従わせるかということにもなってくる。従わない異教徒や悪魔や犯罪者は地獄に落としてしまう恐怖と信じる者だけが救われるという奇跡を現じて見せる。その奇跡のなかにはマリアの処女懐胎などもある。人間が泥から作られ、女はその男の骨から作られたというのは神を初めとして被造物が生まれる支配的従属関係を示したもので、ここに人間が神を信じなければならない理由を置いているようだ。だからエデンの園で食べた木の実は食べることを禁止されているの神の戒めを破ってエデンの園を追放され、奈落の現実に突き落とされるというキリスト教の教化法の原型がここでも見られるわけです。人間は神の言葉など信じる必要は無かったのですが、信じないと追放権が神にあるということが問題なのです。ここに人間の自立的思考が麻痺されていることがわかる。キリスト教はこれを信じさせるところに洗脳のドグマがあるわけです。アダムとイヴを木の実を食べるようにとそそのかした蛇は神が作ったものであり、総てが誤魔化しの演出であったことを知る必要があるだろう。(つづく)
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