この辺の事情に詳しい著述家のバネサ・シュナイデーさんは、ビュッソンというのはサルコジの相談役に任命される前から、サルコジに意見を言ってきた人で、2002年の仏大統領選挙の勝利の後に、ブリス・オートフーの為に移民大臣の職を作らせていると指摘している。
複数のフランスのメディアの明かすところによれば、2006年春にパリのアンヴァリッド廃兵院近くであった若年層の初期雇用法案(CPE)に反対するデモで、パリマッチ誌が写真会社ガマ社から買って掲載した写真があるが、黒人とバター色の青年達が白人青年を襲撃しているのをそのまま放置することに我々は決めた。放置しておいて騒ぎが白熱化して大きくなってからサルコジが救世主の如く立ち振舞うことを指示していたという。それをすぐに止めさせるべき立場であったサルコジは、2007年の仏大統領選挙候補として、シラクの後の競争相手であったドミニック・ド・ビルパン首相を追い落とす為に、デモの状況を腐らせる作戦だったのだと、サルコジの諮問官は書いている。
パトリック・ビュッソン氏がスパイ活動をかってしていたこともあって、そのマニアックな性格から日常会話でも携帯録音機で記録する習慣があった。その為にサルコジらとの集まりや会議でも録音機で記録されているという。
世間を騒がせた事件の一つだが、ベルサイユ宮殿脇の公館は代々の首相が使用できる離宮でフィヨン首相が住むべきものであったが、それをサルコジは自分の使用物にしていた。そこでの集会に出席していたビュッソンは、サルコジ婦人カルラ・ブリーニの性格が酷いことであれこれ喋っている話しの証拠録音を発表した為に、私生活侵害で婦人から訴えられて罰金を2万ユーロ(約300万円)が2014年に求刑されていた。
ビュッソン氏の思想というのは、フランスに於ける右派を結集することであり、ル・ペンの極右派系国民戦線(FN)も、サルコジの「共和党」もその他の右派政党もひっくるめて合同させることだったらしい。サルコジの今の仏大統領選挙での取り組みなどでも、パトリック・ビュッソン氏の目指すようなル・ペンの人種差別や外国人嫌いの価値を共有しているように思える。
2007年の仏大統領選挙の第一次投票と第二次決選投票との間には、サルコジはル・ペンに会うことをビュッソンに指示していて、ル・ペン氏に会う役目をビュッソンは担ったのだとその時のサルコジの言葉を掲載して書いている。
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【参考記事】
http://www.france24.com/fr/20160927-france-patrick-buisson-cause-peuple-nicolas-sarkozy-front-national-jean-marie-le-pen
buisson sarkozy invalide expresse