2016年12月11日日曜日

「曾谷殿御返事」 フランスで日蓮大聖人の『御書』を拝す

「 曾谷 殿御返事」 平成新編日蓮大聖人御書(1038頁-1040頁)には、「見壊法者(けんねほうしゃ)の見と、置不呵責(ちふかしゃく)の置とを、能く能く心腑に染むべきなり」 とある。これは有名な御文であるが、しばしば他宗の信徒や同宗の僧俗においても言えることであり注意しなければならない信仰の基本姿勢なのだと拝する。日蓮大聖人の仏法を破壊する者を見て置いてそれを知りながら咎めないで謗法を許し置くという誤りが与同罪を作って、自らも地獄に堕ちてしまうという。日蓮大聖人は仏法の誤りを責めた場合には多くの難が競い起こって来ると説かれている。

それで日蓮大聖人を面白く思わない念仏や真言の者たちが権力に取り入って流罪、死罪に逢わせたのである。しばしば僧侶なども、言うから叩かれるので言わなければ何もされなかったのにというわけだが、私はそうは思わないのである。もし言わなかったのならば日蓮大聖人も日蓮正宗も存在しないし竜之口の廃迹顕本も無かったということなのだと拝したい。
この 「 曾谷 殿御返事」 の初めの方では、「全く弥陀・薬師に遇ひて成仏せず」とあり、方便権経の真言・念仏の教えが「境智各別」(きょうちかくべつ)であるのは、それらの教えでは人を選んでしか救えないという偏頗な低い限界があることを示されている。日蓮大聖人の仏法では、この境界が「境淵無辺」(きょうえんむへん)であるために総ての万民を成仏させることが出来るのである。そしてこの法門というのは日蓮大聖人が日本に出現されるまでのその前の400年間は隠されてしまっていたということが、 「諸経と法華経と難易の事」 (平成新編1467頁-1469頁) に出ている。