2017年11月23日木曜日

不幸や苦しみを解決しようとして、セクト的幻想の中に繋ぎ留められている人は実に多い 

なかなか他人の痛みや悩みを自分のものとして引き受けられないのが一般的な世間の風潮で、大体が不幸や苦しみを喜び勇んで探し廻る人は皆無に等しいのである。このことを聞くにつけいつも思うのは、この悩みを苦しんでいるのは当事者の本人だけではないということです。そこに多少なりとも同情したり同苦してみせる者は必ず世間にはいるわけです。ですから救済募金や義援金の運動やボランティア団体の活動や講演会などもあるわけだ。しかしその苦は仏教でいう「生老病死」の四苦であり、だれもが多かれ少なかれ経験しなければならないものなのだということです。が、それが分からない人も実に多いのも確かです。ですからこの苦を消しても後からあとから悩み問題は尽きないで湧きおこってくる。どちらかというと性善説でなく性悪的な見方からすると、「世間」とはこの四苦を表現しているものだともいえるのです。つまり生きることもある意味での「苦」なのです。そこから多くの誤った理解が生じて来て、人生が「苦」ならばそこから逃れようとする現実逃避の他土の極楽浄土の世界を念願する真言や念仏などが起こってくる。これはキリスト教徒やイスラム聖戦主義者のサラフィストなどにも言えるのです。

やはりこの現実の自分に課せられた「生老病死」の一つ一つの「四苦」を自分の人生なのだと喜んで引き受けられないと、自分の「四苦」の人生というのが分からないのだろうと思うのです。それを理解する人というのは稀であって、これはなかなか難しのです。

多くの人々は、この「四苦」を嫌い避けるのです。出来ることならば捨象したい。最近では宗教ではなくて制度や法律を変えてこの各自に課せられた「四苦」を改変して無くし消滅させようとする動きもあるようです。このしかしその「四苦」は切り取ったり捨て去ったりできないものなのです。「四苦」は離れようとして不可能なものです。それを削り撮ったり捨てたりするのではなく、逆に利用して有意義なものに転換できないと苦しみの捨象と共に自分の生命を失うことが目的になったりもするのです。

そこに日蓮大聖人の仏教を信ずる日蓮正宗と、釈尊を仏として奉る一般の日蓮宗派や創価学会などとの大きな異なりがあるのです。が、この所が理解できないので様々に人生の「苦」を語り合って、「人間革命」とかの解決法を提示してみせますが、結果が無く解決しないのです。そういう団体や集会に騙されている人々というのが迷いの不幸の中に「苦」を語り合うことでつまり同苦の中に繋ぎ止められて行くということがあるわけです。これはある一つのセクト的な幻想なのです。最近そういうことを感じます。