2011年4月25日月曜日

【コラム】 福島原発事故の「軍隊依存」は 原発の「非民主的性格」表明 

福島地震・津波・原発基地問題の解決策で砂やセメントで封じ込める作業が想定されるが、放射能汚染のひどい被曝を避けるためにチェルノブイリ原発事故ではゴルバチョフが60万人の軍隊にそれぞれ少しづつ作業をさせたという。東京電力の原発事故でも軍隊導入の方式を主張する声が出ている。しかしそれは共産主義国とか非民主主義的な軍事体制の中でなら可能であろうが民主主義国の日本がすべきことではないのである。理由は原発が非民主主義的な存在であるからだ。

この事例を引いて、福島原発基地でも日本の自衛隊にチェルノブイリと同じような作業をさせるために、無力な東京電力や日本政府の指揮権を剥奪して「優秀な物理学者や技術者の国際チーム」に委ねるべきだという意見がでている。

自衛隊の指揮権委譲の主張だが、たとえそれが「優秀な物理学者や技術者の国際チーム」であっても日本の国民はそれを選ぶべきではないと私は考える。別な民主的な方法でも十分に同じことは達成できるはずだ。

軍隊の命令規律を遵守するのと民主主義社会での個人の自由規律とは大きく対立しているのである。

じつは軍隊出動という非常事態によってしか解決策がない原発基を民主主義社会が許してきたことが異常なのである。福島原発事故はそのことを示してくれている。

世界中のどこの国の原発であっても、チェルノブイリ原発事故でソ連軍隊の出動命令があってかろうじて統御される?ものなのである。理由は軍隊が最大の能率を持つ経済システムであり生きたロボットの世界だからである。これを最終的な解決策に是認する思想は民主主義とは相容れないものである。

かれらは常に人間の脅威や災害の不幸を非常事態の理由にして非民主主義的なシステムを許してきた。

広島・長崎の原爆投下が福島(パリ)と同じだというのは、一方で共に放射能汚染の問題で共通するわけだ。

原発基地は民主主義的な社会の手に余るもので、軍事体制によってしか統制維持できないという仕組みが福島災害の東電原発事件でだんだんわかってきた。

軍隊も原発基地も秘密主義なのはそのためで、これらに情報の透明性を求めようとするほうが本来無理な注文なのである。

私の考えでは、悪魔と手を握ることを自ら進んですべきではないということだ。