29日予定されたフランス人ミッシェル・ジェルマノー氏(78)を追悼する集会が19時からパリ南部のエッソンヌ県の小さな町マルクウシィの市庁舎前でおこなわれ市民など400人ほどが集まった。(本文の初出 / 公開日時: 2010年7月30日 @ 9:06 )
夕刻から始まった式には村の人々は家族連れで集まった人も多い。いつもよりは小奇麗にして正装まではいかなくても村の人々は静粛な儀式だと受け取って参加していた。多くの人はジェルマノー氏を知らないという。実際に会った人は数えるほどらしい。
そこから、「同氏が控えめな人で、目立った英雄的な行為を嫌っていたという人柄が推測されるのだ」と市の広報担当のアニエス・ブレジィンスキーさんは言う。しかしジェルマノー氏にはスキーの友人などもいたのだと話す。
同氏はフランス南西部のアキテーヌ地方の出身で北フランスにもいたことがあると語った。
市長は挨拶に立ち「皆様に集まって頂き感謝しますと挨拶の言葉を述べた」
市長は夏のバカンスから帰ってきたばかりで真っ赤に日焼けしていた。うつろな眼差しで静かに話す人だ。わたし(筆者)の質問に、「ジェルマノー氏はアルカイダに殺された」、「フランス軍兵士はモーリタニア軍の作戦に参加していた」と答えている。
アフリカの子供たちを支援するアソシエーション「ENMILAL」のイボンヌ・モンチコ会長はジェルマノー氏との友情を語った。「どこでジェルマノー氏には出会ったのか」とのわたし(筆者)の質問には、「皆既日食が2006年の3月にニジェールであり、そこに出かけていった。その時に知り合った」と語った。
アソシエーション「ENMILAL」は、2006年12月に結成されたニィジェール共和国の子供たちの就学化を援助する組織で学校建設と読み書きなども援助している。
「その時に、二人でアフリカ支援のアソシエーションをつくることにしたのです」といった。今日の集会にアルプスの首都グルノーブルから駆けつけてきた。
イボンヌさんはジェルマノー氏と最後の旅をした時の写真だとしてわたしに見せてくれたのは、ニジェールでの写真で左側がジェルマノー氏で中央が当地のアソシエーション会長のアビディノウリ氏だという。
村(ビラージュ)の人々に混じって、バカンスでマルクウシィ市を訪れているのだという高齢の男性が会場の端っこに一人佇んでいた。訪ねると、「40年前の昔しにこの町に住んでいた。以来バカンスによく来るのだという」、自分は右で市長とは党派が違うが今日の式に参列したのだという。
「まだ死亡が確定しているわけではない」、「ひょっこり帰ってくると、本当にうれしいのだが」と話した。
ジェルマノー氏の死は、7月中旬にモーリタニア軍による過激派イスラム・マグレブ諸国のアルカーイダ(AQMI)襲撃作戦をマリ領で展開したのを、フランス軍が援助したということで、報復として、フランス人人質であった同氏が殺害された。同氏の殺害はアルカイダ捕虜釈放を条件に既に26日までにフランス側のモーリタニアなどへの介入がなければ殺害を執行する宣告がなされていた。これに対し仏外務省は正式なアルカイダ側からの捕虜釈放の要求は受け取ってないと発表していた。
同氏の死亡宣言はアルカイダ側が23日夜に中東の衛星テレビ局アルジャジーラを通して宣言された筋書きと同じだ。この発表を基にして26日朝の閣議後にサルコジ大統領がミッシェル・ジェルマノー氏の死亡宣言を出している。
エルベ・モラン国防大臣の27日夜のフランス国営放送・テレビA2での発言で、大臣は質問に答えて、フランス側はジェルマノー氏の死亡証拠は何も無く、中東の衛星テレビ局アルジャジーラで報道された、アルカイダ側からの殺害宣告に基づいてなされたことを明かしている。
追悼集会の後でミッシェル・ジェルマノー氏の家に寄ってみた。家は以前と同じく閉ざされたままだ。入り口の木戸の取っ手には誰かが飾った小さな花束が置かれていた。その花は質素で野草のようでもあり可憐であった。同氏を知らないわたしだが、一瞬だけ足がふと動かなくなった。
アソシエーションENMILALhttp://www.enmilal.org/
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