2015年10月1日木曜日

シリア人やリビア人の欧州流入を 「難民」として見られない冷たい眼

「難民」問題を論じるには、アラブの春の影響を恐れたシリアのアサド大統領が、自国民であるシリア反体制側蜂起市民側への弾圧をオムスで開始し、以後、市内戦から身の安全を求めてシリア周辺国へ100万人を超える移住民がでた。このシリア市民の国外流出があったということをしっかりと抑えて言わなければならない。イスラム主義国家組織(IS/EI)がシリアを脅かしたので、市民が国外へ逃亡したのはずっと後の事なのだ。それは極最近のことであってこれらを混同させてはならない。リビアの場合でも、サルコジがリビアを空爆し国土を破壊したが、その後の国家再建などは考慮されていなかった。その為に、リビア国の下部構造が破壊されたままで経済的な再稼働ができずに停滞してしまった。カダフィの殺害される以前にはこの種の地中海を渡ってくる「難民」はいなかった。サルコジの空爆後に起こったのである。国が空爆で破壊されて、リビア市民は貧困のどん底に落とされたのであって、ここでもアサドのシリアと同様に、直接の市民の国外流出は「貧困」が原因ではないのである。

シリアやリビアの市民が欧州へ流れ込んでいるのを、経済「移民」と見てしまうのではなくて、戦争やテロリストの難を逃れた亡命「難民」との視点から見ることが必要なのではないのか。滝澤三郎氏の寄稿である「相次ぐ密航船の転覆事故で多数の死者も  移民・難民、なぜ増える?」という一文を読んで、 「難民」と見たくないような、眼の冷たさを感じた。少しく驚いたのでコメントすることにした。
Ⅰ)中東・アフリカの難民がどうして急増したのかが問題である。

「地中海を密航船で渡る人々の多くは、純粋な紛争難民でも純粋な経済移民でもない、生きるため出国する人々です。貧しさゆえに紛争が起き、紛争が経済を破壊して貧困が広がり、生活できないから命がけで外国を目指す……。こういう人々を「生存移民」と呼ぶ学者もいます。」ここでの、「貧しさゆえに紛争が起き、紛争が経済を破壊して貧困が広がり、生活できないから命がけで外国を目指す……。」と滝澤氏はいうが、この連鎖は正しい認識なのだろうか? こういう滝澤氏の指摘する順序の認識からは、戦争や紛争による「難民」という定義の人々は認められ得ないことになる。したがって、「難民」が当然のこと認識されなくなってしまうのではないのか?


Ⅱ) 金を出して評価されるとは、 命は金で買えるという認識や、金と命を天秤にかけらえるという価値観の混同であって、難民救助とはかけ離れたものであるのではないのか?

「日本の難民政策は、難民受け入れはごく少数だが、海外の難民支援のためのカネは出す、というものです。ですので、「何人の難民の命を救ったか」という観点からは日本の難民への対応は評価されるのですが、国内受入数があまりにも少ないため、全体としての評価は分かれているのが現状です。」と言っている。この論者は、金でする難民支援と難民受け入れを混乱させて議論しているようだ。難民の命は金で買えるという認識や、金と命が天秤にかけられるという価値観からこの混同が起きているのではないか。この難民・移民問題の理解の複雑さは一つにはこの混同にあると思うのだが。