2013年12月30日月曜日

クリスマスにぺール・ノエルがいてメール・ノエルがいないわけ


山は天候が悪く強風が雪面を煙らせていた。雪のゲレンデから山頂へ出ているスキー・リフトの中には、56歳ほどの2人の子供とそのスキーの先生、2人の40台の夫婦が私したちの前に座っていた。今日はクリスマスである。高齢の先生は、「2人の子供にどうしてペール(父親)・ノエルがいてメール(母親)・ノエルがいないのか」と聞いていた。男の子は少し考えてから、「お母さんは用事があってよそに行っていて留守だったのです」と答えている。先生は少し驚いた様子をしたが、満足した表情をしなかった。2人の夫婦はこの子どもたちを横目に見ていた。男性の方は多い髯と黒い色のゴーグルのせいで、微笑んだいるようでもあったが表情は硬直していた。何も言葉をこれに関し挟まなかった。

日本ではサンタクロースが女性になることはまず考えられない。しかしフランスではペールは父親であって、サンタクロースをペール・ノエルと断るのだから当然のことメール(母親)という女性である場合も考えられわけである。先生の質問はそういうところに根ざしたものだったようだ。だからそれが母親の場合にはメール・ノエルということにもなるわけだ。

こんな問題は日本では提起されないのがまず普通だろう。しかしフランスでこれを子供に質問していることに私は面白いことだと関心をもった。私がこの先生になにか言おうとして考えている内に、スキー・リフトを降りる執着点にもう来ていた。

いったいこのスキーの先生はどういう人なのであろうかと気になった。確かに、子供たちにクリスマス・プレゼントを持って来るのは、ペール・ノエルであってメール・ノエルではないことに今のフランスではなっているわけで、これがペール・ノエルだとすることは全く不思議なことなのである。

そこに子供たちに嘘をついている社会がある。親達は共謀して何かを隠し誤魔化している。誰も見たことがないサンタクロスが贈り物を持ってくるということは嘘である。そのサンタクロスが母親ではなく父親だとするのも正解ではないだろう。しかもサンタは暖炉の煙突から忍び込んでくるわけだ。半分信じられない侵入の仕方で贈り物を届けるのである。贈り物はサンタクロスから子供に贈り届けられることになっている子供達はその贈り物の届け人は自分達の父親や母親が持ってきた物だとは解さないことになっている。その贈り手である届け人は謎の人サンタクロスでありペール・ノエルでなければならないのである。贈り物を介して、存在しないものを子供心に信じさせる強制の仕掛けがここに ある。

存在しない物というのは、閉ざされた家の中に贈り物が突然に現れることであるが、同時にそれはキリストの誕生のことでもある。これは、実在した人間マリアを母親として、ヨゼフではない神の精霊を宿して誕生したキリストの半神半人の存在不可能な不思議を子供の頭に信じさせる呪縛のトリックのことではないか。見えない物や不可解な存在を、つまり神だの天使だのという誰もがかって見た事がありえないものを信じさせるために、サンタクロス(ペール・ノエル)の贈り物を介しながら一つの魔術を子供たちに仕掛けているとしか思えないものだということだ。

だから、この謎解きの答えは暗喩として、ペール・ノエルとは神であり、長いエントツとはその神が宿ったマリアの母胎のことであり、 贈り物とは生まれてくるキリストということになるだろう。だから、母親はよそに行っていて留守であったのはなくて、家の暖炉の長いエントツ(マリアの子宮)として存在していたということだ。ペール・ノエルという神が、父親(ヨゼフ)の留守の間にそのエントツから家に侵入して、キリストという子供の贈り物を届けたということになるだろう。そうすると実在人物の父親とは子供にとって家庭内では何者なのかという疑問がのこる。

スキーの先生の質問は何かもっと別の答えを期待していたのかもしれない。

キリスト教ではクリスマス(ノエル)はキリストの誕生日ということになっている。キリストの誕生はマリアという実在する人間の胎内に宿った子供として生まれる。しかしその父親であるはずの大工のヨゼフとマリアには家庭生活がない。ヨゼフはキリストの養育係りで教育者でしかない。生物学的な父親ではないのである。これを認めてしまうとキリストは単なる一般の人間の夫婦から生まれた人間の子供になってしまうからだろう。

クリスマスはペール・ノエルだからといって、父親のいない家庭の子供に贈り物が届けられるのではないのである。父親の健在な家庭内で、サンタクロース(ペール・ノエル)の贈り物としてペール・ノエルが子供たちに届けるのである。それは何故なのか?キリスト教徒の家庭にはヨゼフと同様にしていわゆる父親が存在しないのだろうか?