梅原氏の見解は昔から独特で有名である。学生のころに何冊か読んでいた。今回手にした「隠された十字架 ―法隆寺論―」はかなり昔の出版だ。神田の古本祭りで見つけたもので黒い布に金糸が散りばめられた綺麗な装丁の本だ。非常に面白かった。
「古事記」や「日本書記」を、藤原氏によるクーデターとその政権の正当性を論じるイデオロギー的歴史書だと見る立場だが、このことで梅原氏は皇極2年(643年)の聖徳太子の一族二十数人とかの皆殺し事件を問題にして、何の罪も無い人たちが無残に殺害されたとしている。梅原氏によれば、法隆寺はその聖徳太子一族の怨念の御霊が藤原氏に祟るのを恐れて建てられたもので、鎮魂寺なのだという解釈をしている。
私が思うのは、聖徳太子と蘇我氏が日本に伝えようとした第三十代欽明天皇の代に百済から伝来した釈迦像や経典というのは、百八十神を拝む物部の嫌った西藩の仏のことである。この釈迦像によってこれを直ちに仏教として捕らえてよいものかという疑問が私にはある。梅原氏はこのことを明快に言わないでいる。だから当時の日本の上下万民の人々はこれは阿弥陀仏の観音であって、釈迦仏だとは言わなかったのである。これを梅原氏は何の疑問も挟まない。こういう迹仏の伝来と釈迦仏とを同じ並べ取り替える当時の解釈を昔も今も許してきたことが、実は日本の仏教の混乱が社会に怨念を起させる大問題なのである。
梅原氏がいう聖徳太子一族の殺害の怨念とは、一見すると政敵に殺害されたことから起きる怨念だとして非常に理解しやすい解釈だ。が、そうではなくて、釈尊にあだをなしたが故に生じた怨念なのだとは見てないのである。
仏教が神国日本で正しく祭られて無いということなのだ。天皇が殺害されるというのは下克上であるが、その原因を探ると、その祭り方が逆さまで転倒していたからだ。祭り方というのは、一つは神道と仏教、もう一つは(例えば)、仏教内で観音と仏との上下を誤魔化して誤って祭ってきたからである。こういうことを何故、梅原氏が問題にしてないのか不思議な思いがした。
怨念を抱き人を殺害することは仏教では禁じられている。この問題に解決を出したのが真実の仏教なのである。しかし仏教は、第34代推古天皇の時に三論宗や成実宗が日本に渡ってくる。第36代皇極天皇の時に禅宗が渡ってくる。第40代天武天皇の代に法相宗が伝わり、第44代元正天皇の時に大日教が日本に伝えられるが、依然として天台法華宗以上の経典というのは伝えられなかった。仏教をたもった聖徳太子も、太子の伯父である第33代崇駿天皇の人相を占って殺害を予告したのだが、救うことはできずに入鹿に殺害された。太子の一族も皆殺しに会っている。
それは、人を殺すことが簡単に許されたわけは、宗教に教えが低く人間の命の尊厳が当時日本に伝えられた経典では本当には説かれてなかったためなのである。例えば、外国の宗教でも、昔はキリスト教やイスラム教は聖戦だとか十字軍だとかいって人を殺すことに理由をつけて認めていたのである。そこでは簡単に人が死に戦争も起こるし怨念は当然のこと復讐の再度の殺害がなされる。梅原氏が克明に描いた天皇家の殺害劇がそれである。
これらの大乗の宗にあってしても、梅原氏がテーマとした怨念を鎮めることはできなかったのである。その理由は、大きく二つほどあると思うが、前に少しく示したとおりである。