2015年3月27日金曜日

サボア山系で考えたこと 現代の超克 キリスト教と聖戦主義

サボア山系の夜は静かで、フランスアンフォの15分おきのニュースはもう6日間もストライキでまともに動いてない。代わりになんとなく前に聞いたことのある音楽が鳴り渡っている。サボアの特産物であるボゥフォーチーズとトム・ド・サヴォアを魚にサヴォアのガメ酒を飲みながら考えたことを少しだけ書くことにした。アウシュビッツ以後のヨーロッパ世界はナチス…ドイツのユダヤ人大虐殺を二度と繰り返してはならないという。しかし今、世界には宗教を背景にしたイスラム主義国(IE)やオウムやスウェーデンの連続殺人など起こったが、これらは聖戦思想や宗教的なイデオロギーをバックにした人種差別的な殺害であった。民主主義は独裁に対するものだが、この独裁は日本の軍国主義の独裁にしても神道という宗教をバックに起こったものである。

リスト教徒に大きな影響力のある教皇というのがいる。キリスト教が聖地をイスラム教徒に蹂躙され占拠された為に、これを奪還する十字軍が組織された。しかしこの呼びかけに西欧世界は何故か直ぐには呼応しなかった。それは戦争になればたとえイスラム教徒でも殺害することになるからで、人を殺して天国に行けるとは考えなかったからだろう。そのために第1回目の十字軍は人が集まらなくて当時の教皇ウーバン2世が一考を案じ、この戦争はキリストの為の聖戦なのだと囁いた為に、人々は安心してイスラム教徒の殺害を実行したのであった。この話を私が有るキリスト教の僧侶に質問したことがあった。この僧侶はそれに関し、歴史のことは詳しくは分からないがとしながらも、この問題は既にジャン・ポールⅡ世が謝罪し懺悔したのだと答えている。この話は有るキリスト教徒からも、その謝罪は2000年に教皇からあったのだと聞いている。

問題は、あらゆる宗教や道徳は人を殺害することを勧めてなどいないと言いながら、現実ではその殺害の行為を許して来たということである。イスラムだけでなくキリスト教もそうであった。問題は神よりも人間の命が軽く見られているからである。1月初旬にパリで起きたチャリー・ヘブドの風刺画事件では、預言者マホメットを描くことが彼らの宗教的心情にしたがって良くないとして、人間を殺害してもそれは当然だとしてしまったことが問題なのだ。

神や預言者はそこでは既に人間のためではなくなっている。これは民主主義に反する宗教的独裁者のセクトの思想だということだ。このことが未だに能く理解していない人々がおおいということである。これは信仰の自由とは無縁で関係がないものである。宗教的信条や信仰は個人の自由として不可侵の権利である。だからといって他宗教者を気に入らないからといって、また異教徒だからという理由で、殺害したりすることは許されない。フランスの宗教分離(ライシテ)は完全なものではないが、現時点での宗教的教条主義の政治介入を防ぐ最良の民主主義の柱なのである。

現在の共和国フランスには当然のことあり得ないことだが、ヨーロッパにはドイツなどにこのキリスト教の宗教政党がまだ存在していることが、過去の人種差別の政治的経験を考えてみると、イスラム主義的な政治介入と同様な結果をもたらす可能性が残されていると危惧するのである。

なぜならばフランスに於けるキリスト教徒の場合に於いてさえ、仏議会で憲法化されたホモの結婚法成立以後も、ライシテに違反するような反対運動を続けているからだ。その活動の中心に僧侶がいてキリスト教組織があると見られている。キリスト教信徒の国会議員が何十人かバチカンに呼ばれて、ホモ結婚法に修正案を出してこれを廃案にするように指導されていた。これは宗教の政治介入であり民主主義に反していたといえる。