それは、逆らえば「人」ではなく「悪魔」にされてしまうからである。問題は、「悪魔にされた人」がどう「神」に「抵抗」したかである。そこを見て見たいし、そこに本当のキリスト教における「抵抗」が有るだろう。
それから、信仰に服従しない人間を「悪魔」呼ばわりし、そうすることで殺害を認めるわけだが、これは自然権である人間の生命の尊厳を認めてない宗教だということだ。異教徒やサタンは悪魔であってキリスト教では人間でない悪魔にされてしまう。
ここで本当ならそういう「人」である自分を悪魔にして地獄へ突き落とす「神」に対し、「抵抗権」を発動させなければならないのである。「悪魔」の「神」に対する「抵抗」こそがキリスト教らしい「抵抗権」の源泉だとも思える。
しかしキリスト教では「神」の下に「人」がいるので、「神」と「人」は平等ではないし、「神」が「人」の下には来ないのである。ここにキリスト教の不平等の思想がある。現在でも前の仏大統領のようにキリスト教文明が世界の他の文明の頂点にあるなどとしてイスラム文明など他文明を蔑視したりする者が多い。これはキリスト教の神を頂点とする差別主義からきている。宮崎氏の見方はこの点において正しい。キリスト教の人権や「抵抗権」といってもその差別主義の域を出ていないのである。
キリスト教徒は誰もキリストに「抵抗」してこなかった。これを成し得て始めてキリスト教における「抵抗権」の価値が出てくるというものだろう。「王」への「抵抗」などは名ばかりのものだ。いろいろと人権の「名札をぶら下げさせてみても」「実義」が無いから、「有名無実」で、なんとなくチンドン屋風体なのである。今もキリスト教徒が異教徒を殺害するし、しばしばイスラム教徒を差別したりするのである。
【参考記事】
http://www.chugainippoh.co.jp/ruikotu/ruikotu11-01-01.html