2015年7月5日日曜日

念仏法然の流れ、仮想の戦争危機を挙げ 社会で宗教の正邪を回避

昔し池田大作という創価学会の会長だった人が、非常に面白いことを言っていた。戦争になったらと、池田は戦争状態を仮想して話すのである。もし戦争になったのなら、家も寺院も焼かれ御本尊さまも無くなってしまう。それゆえに、宗教の正義がどうのこうのときれい事など言っていられなくなるのである。だから戦争を起こさせてはならないので、世界平和を先ずは実現しないといけない。と池田はたたみ込みながら主張するのだ。この池田の宗教観によって、これまでの創価学会が方向転換をしてしまった。この時に日蓮正宗に対峙して池田は独自の宗教をたてたのであったと私は見ている。世界平和運動路線の新理論というのはこのような考えが基礎になっている。その池田創価学会の新理論を構築する下敷きに利用したのが「立正安国論」という日蓮大聖人の書かれた論文であった。これを池田は逆さ読みして書いているので、『立正安国論』を正しく読んでない誤りがある。それは、『立正安国論』での日蓮大聖人の立場を取らずにこれを捨てて、対立する論者の視点である念仏の法然の悪戯を支持してしまったことである。

その念仏法然を支持して、いかにして創価学会員にそれがわからないように欺いて誤魔化したのが池田大作著「立正安国論講義」であった。

創価学会は池田の「もし戦争になったのならば」の一言に脅されて、正しく日蓮大聖人の『立正安国論』を読めなくしてしまったのである。池田は日蓮大聖人の本意を汲むことができなかったということだ。

日蓮大聖人の主張された、宗教の誤りが国家や社会の不幸や個人の苦しみを作り出しているとする思想に、池田は反対し対抗したのである。現実社会の人々の信仰の正邪を糾し宗教の棟梁を明らかにしなければ真の安国はないという日蓮大聖人の考えに背いたのである。この池田の考えが念仏法然の主張でもあった。

法然のいう、先ずは周囲の安全を祈う世界平和の実現をしていかなければならないという主張を使って、宗教の誤りを糾さなくなった創価学会は文化運動や世界平和運動路線へ会員を奔走させたのである。

日本の平和憲法を戦争ができるように変えたい安倍晋三首相というのも、この「仮想戦争」の中に現在の日本を据え直して、そこから蒙相を考え出している池田大作と同じ思想傾向を持つ人だといえる。その仮定を基として、そこから戦争には軍備が必要だとし平和憲法を改変しようとする。このトリックはまさに念仏者の法然の思想と同じで、現実を見ないでありもしない仮想の戦争状態を声高に叫んでみせて、人々に死の危険と恐怖心を植え付けて、今度は人々を、実際の戦争世界に送ろうとする。念仏無限地獄の悪魔の法然といわれた思想のことなのである。池田の逆さまに解釈した「立正安国論」の法然読みとはこの筋をいうのだ。
最近に有る人と会話をした。その方は、人間性というものに大きな失望を感じているようでもあり、戦争が起これば人を殺害し慰安婦などは当然だと考えていてそれが戦争だというのである。この考え方も、「立正安国論」の中の念仏法然の弟子の主張にどこか似ているとも言える。また、池田の立論の立て場にも似ている。それはともに現実に無い戦争を仮想していて、そこを論拠の基点においているからだ。これはもう少し考えていく必要があるが、とりあえず私の問題意識がこの辺に存在していると思うので記載しておきたい。なお実名は控えた。

主 : 狂った戦争だけでなく、狂った人間がいたということです。いま戦争を推進しようとする人たちが、再び世界中に慰安婦を作り婦女子を苦しめてゆく。日本人だけではない世界中の戦争をする軍人は同様の性犯罪を犯している。それは人間が人間でなくなって狂人になれるのが戦争だからだ。今の日本でもこの狂人の世界を実現してみたい人たちがいる。その「狂人世界」とは「他化自在天」といって人間の自由を奪い人間の尊厳を剝奪することを楽しみとする権力の魔性のことを言う。日本の安倍晋三首相の好戦的思想もそうだがこれを支えている公明党・創価学会こそが、この仏教的な理解においての「他化自在天」という「狂人世界」の実現を願っているのではないか。それは宗教的価値においての逸脱し誤った信仰となってしまったからである。彼らがそれを正当化する方法は、現実を誤らせ逆立ちさせるしかないからである。戦争が起これば何も知らない人たちもまた一緒に苦しみの地獄に突き落とされるのである。慰安婦の問題は、国家神道が靖国神社という拝む対象でないものを祈りの中心にした誤りからきている。いま拝む対象でない創価学会を拝む者もまた、靖国と握手をするようになったのはそういう同類者たちだからである。


客 :  狂ったと言うけれど、正常な人間がそうなってしまうのが戦争なんです。便宜上そう言っているのかもしれませんが、狂っているのではなくてそれが戦争です。


主人 : 正常な人間ならば人を殺害したりはしません。人を殺害したり虐殺したりしても平気でいらるというのは正常な神経ではないのだと思います。どうしてそうなったのかが私の長年の問いなのです。どうして戦争になると、あるいは戦争でなくてもよいのですが、多くのユダヤ人や朝鮮人を殺害し或いは又、イスラム教徒なら殺してよいということになるのかということです。・・・・・・・ここに人間に対する理解の違いがあるようですので、もう少し神作さんのご意見を聞きたいと思います。戦争で正常な人間が人を殺すというのには、なにか考えがあるのでしょう。おそらく。それをお聞きしたいと思います。


主 : 客の言われるように「まず、相手を殺さなかったら自分が殺されてしまうと言うこと。理屈は言ってられません。考えなんてないと思います」ということこそが大きな問題なのだと思います。つまり、ここにおいて非常時の場合には自分の命が殺される場合にはきれいごとは言ってられないから「殺害を許す」という思想がすでにあるわけです。人を殺さないということは、自分も殺されないという思想を信じられないからです。人間への尊厳はすでにそこで封鎖されてしまっている。だから平気で殺すことになる。神道やキリスト教やイスラム主義においても魔物や悪魔や異教徒の殺害を承認している教えがあるのです。思考の基本に置いて殺人を絶対否定しないでこれを許しているということです。人を殺害することが「だんだん麻痺していく」というのは、この基本において強靭な反殺害の思想というものが、戦争以前の日常性の中においても自身の中に存在していないからです。前に挙げたような宗教では、教えが無いために殺し殺されることが当たり前になるのです。それは何故かというと、「相手も自分も殺したら殺す」という基本から出発した人間不信の宗教であり、教えであり、哲学であるからです。今世界中に戦争が耐えないのは、「まず、相手を殺さなかったら自分が殺されてしまうと言う」誤った狂った人間観を認めていることからきているのです。(…)「相手を殺さなかったら自分が殺されてしまう」とか、「だんだん麻痺」するのではなくて、戦争以前の日常の現在に於いてすでに「麻痺」しているのです。軍隊が武力で婦女子を殺す以前の話しなのです。ですから戦時だから戦争だからといって軍隊が暴行して女性を慰安婦などにして良いわけがありません。少し長くなりましたが、大事なことなので書いた次第です。


主 : 奴(やっこ)になって戦場に送られるというのは、そういうことです。目を潰され口を塞がれて奴隷のようになっている兵士のことなのです。これは恐ろしい。自分の中にも他の人の中にもこの奴(やっこ)がいるのです。過去にも現在にも、そして未来の戦争の中にもあるのです。この奴(やっこ)と戦う思想が必要です。慰安所は戦場に軍隊といっしょにあると思うひとが殆どだが、それ以前の平和なときに慰安所を日常世界で支持している人々がいるということです。女性を性の道具にしている尊厳の無い人々がいるのです。これが恐ろしい。先ほども書きましたが、キリスト教やイスラム教や巷に蔓延する無数の偽仏教や神がかった教えでは、人間を奴(やっこ)にすることはできても、この複雑奇異な人間を救済(神に救われるという意味ではないです)することはできないのです。

主 :  戦時であろうと非戦時であろうと、いつでも女性は慰安婦でも慰安所でもなく娼婦でもないのです。その段階に入ってゆく過程を許していることが、結局は同じことなのです。はじめにどう考えているかでは無いでしょうか。人間観なのです。

主 :  人間は殺してもならないし、女性を非人間的に扱ってはならない。

主 :  客人 の言われるような東西の娼婦観の相違のことなどでは無いのです。慰安所を作って婦女子を性の道具にしたりすることと、人を殺害し戦争を許す思想とはつながっているということです。そこには、性的差別を許し人種差別や、他人は殺しても良いとする考えとこれらは繋がっているということです。この悪い思想が臓腑深く染み入って本心を失っているということなのです。だから自分も他人も信じられなくなるのです。戦争になっても誰もが奴(やっこ)になってしまって、人を殺すことを何とも思わなく次第に麻痺していくのではありません。レジスタンスだってあるのですから。


客 :  なるほど。慰安婦はいけないと言っているんですね。それはそうだと思います。戦争がなければ慰安婦はいない、いらないと言っているんだと思います。でも、戦争になれば慰安婦は出てくる。そういう女性が必ず出てくる。自ら出てこなくても、連れてこられたとしてもです。それは、男と女がいるという人間のいや動物の性でもあります。そうなっちゃうのが戦争です。人間観以前の問題でもあります。


主 :  でもそれに反対する人もいるし、拒絶して慰安所に行かなかった人もいるのです。人間によるわけです。そこには人を犠牲にすること、人間を道具にしてはいけないという尊厳がある。それは人を殺害することにも関係するのです。ですから戦争など始まらなくても暴行や金銭で女性を道具のように扱っている人は現在でもいるのです。そのような人が戦争で慰安婦を欲しがるのでしょう。そうでない人もいることを忘れてはなりません。私たちは人の不幸の上に自分の幸福や安楽を築くことは恥ずかしい人間ではない行為だとして弾劾するのです。

客 :  その意見もっともです。それでいいんですけれど、戦争になったらそんなこといってられませんよ。それだけです。今何もなくて、平和だから、いろいろ言っていられるけれど、ぎりぎりになったら人間の本性が出で来るんです。

主 : 客の言われるのは戦争になった場合を言われている。それならば現実では人を殺すことや売春宿は許されるのでしょうか。戦争など起こらなくっても起こっても、殺人や軍隊の慰安所は許されないのです。それが人間の基本であり人間の尊厳の基本の基本なのです。これを否定する人は現実でも戦場でも人を殺し婦女子を道具扱いするのです。ぎりぎりというのは戦争をいっているようですが、だからといって日常でもそれが許されるという道理は成立しない。だから戦争でも非戦争時でもこれ等は犯罪として法律で裁かれなければならない。しかしさらに恐ろしいことは自分の生命が慰安婦や戦争をどうとも感じなくなってしまうことですが、それは戦争が始まる前にそうなることを認めてしまうことにあるのです。ですから前にも書きましたが過去に、現在に、そして未来において瞬時のすくまもなく人間を尊厳すること、つまり殺害をしないことを守って生きたい。そして暴力や権力で兵隊の遊び場としての慰安所などもってのほかなのです。そういうものを認めることを日本人にも外国人にも許さないことが市民の義務なのです。神作さんの言われた戦争になって「ぎりぎりになったら人間の本性が出て来るんです」ではなくて、過去にも、現在にも、そして未来にもすでにそういう人はすでに出ていたし、出ているし、そして未来にも出るのです。現在を見れば、過去と未来はわかるのです。私たちがこころしなければならないのはそういう生命のながれであり、連続なのです。きゅうに変わるように見えてもそうではないのです。いまレジスタンスをする人は、過去もそうだったし、未来もそうなのです。今そうでない人は、過去においてもそうではなく、未来においてもレジスタンスはしないし慰安所をうけいれ、人を殺害してしまうのです。これはひとつの因果論なのです。この因果律を切ることはできません。それゆえに私たちは現在に置いて努力する必要があるのです。それが未来につながる。

客 :  私は、貴方の言われているような人間の基本姿勢とかを言っていません。貴方が言っていることは、人間の生きていく上でのモラルで、原則です。戦争で解りづらければ、個人同士の喧嘩でもいいです。喧嘩になっちゃって、自分の基本姿勢とか、考え方とか言ってられますか?私はそれを言っているだけでのことです。喧嘩になっちゃって、貴方みたいに人間のモラルを説くと言うことできるかどうかよく考えて下さい。

主 : 客人は、ようやく理解されたようですが、ですから何度もいってきましたように、客は、戦争や喧嘩を想定してそこでの人間のことを言っているのです。わたしはそういう仮想状況ではなくて現実の現在の我々の生き方が、すでに未来の世界をものがたっているのですよ、と言っている。未来に喧嘩や戦争ばかりかんがえていたのでは、現在の日常というのも喧嘩ばっかりの毎日と言うことになりかねません。そういうことを話しました。いかがでしょうか。おそらく現在に戦争や喧嘩など人を傷つけ殺す殺意があると過去においても、かつ未来においても同じような可能性は高いのだと言っているのです。そしてこの原因はどこからくるのか、これを少しだけお話ししました。

主 : 人間の生命を損ねる戦争やそれを主張する人を、今現在に認めることになればいったい何を持って未来の安全を確保できるのでしょうか。戦争を起こさないこと、喧嘩をしないことが大事なのです。喧嘩を起こす人や戦争が好きな子供がいます。親もそうなのかも知れませんが、この家庭環境やその人の持つ道徳や価値観が良きにつけ悪きにつけ、それに大きく関係するのです。現在においても、良い思想や道徳・宗教を持つということは、つまり人を殺さないということを主張できるのです。これを持っている人は未来においても人を殺さないのです。争いのある怒りの宗教や倫理や道徳の心を持っている人というのは、戦争が好きになるわけで、ですから未来においても戦争を認めるのです。それは何故なのか、それは自分の瞋恚(しんに)をどうすることもできないためなのです。他人への怒りであり自分自身への怒りなのです。怒りと殺戮を認め、それを好む闘諍(とうじょう)の心が戦争を世界中に蔓延させることを可能にする。それが過去の二つの世界大戦であり、今のベトナムや中東戦争、リビア空爆や世界中で起こっているテロです。宗教が思想が人倫が本来の力を失って逆に人を恨み憎しみを倍加させて殺害を許す。戦争やテロリズムの後押しをするようになってしまっている。人間を軽視し尊厳しない、人間の命よりも神や国家が重要だとする誤った思想がそこにあるのだと思います。

主 : (慰安婦問題を考える)「慰安所は軍の施設」公文書で実証 研究の現状、永井和・京大院教授に聞く:朝日新聞デジタルの記事は、そうした軍隊が戦争で犯した過去の否定できない日本兵の犯罪の証言なのです。わたしたちは、目を潰され口を閉ざされて奴隷のように奴(やっこ)のようにされて兵士もまた慰安婦も鎖をつけられて戦場へと、アウシュビッツのような大虐殺場へと連れられていった。そして多くのひとが死んだことを忘れてはならないし、これに目を閉じ蓋をするようなことがあってはならない。今の多くの人々が、人間を尊厳できない思想や宗教やまやかしの歓楽に浮かれ酔い狂っていて、現実を見ないで仮想世界に忘我している。これが、戦争の原因であり兵奴の果報(ひょうぬのかほう)なのです。