2016年7月4日月曜日

前代未聞の大戦争が全世界に 日本の神道・創価学会がテロの火種を国外から誘引

●念仏・法然の「法華経」を失う生命軽視思想を創価学会が継承

(パリ=飛田正夫7/4/2016 8:23:27日本時間)前代未聞の大闘争が一閻浮提につまり大戦争が全世界に起こると日蓮大聖人が「立正安国論」で指摘されたように、三災七難、天変地夭・飢饉疫厲が予言道理に競い起こって来てくることは、確かなのだと思います。悲しい事に、それを空言のようにして創価学会・公明党の幹部も会員も、仏教を勉強して多少は気付いていながら、誰も知らないふりをしているということです。鎌倉時代は念仏・法然の思想が「法華経」を国土に失う生命軽視の思想だったので、これを日蓮大聖人は批判したのだということです。今ではこの法然先生の弟子ともいうべき「立正安国論講義」を顕して世界平和路線を打ち出すことで、宗教間の教えの正邪を決することを辞めてしまった池田大作が実にこの法然を学んで「捨閉閣抛」を後継してしまったのは全く不思議なことなのです。「立正安国論」を読みながら、日蓮大聖人の思想ではなく念仏・法然の思想に組みすることになった創価学会・公明党の根源の誤りは、この解説本である池田の「立正安国論講義」で逆さまな論議を展開したことにあるわけです。何度かこの点に関しては触れたので、また「立正安国論」を池田の解説筋で読まれてない方には、正しく理解できるのだと思います。

●法然念仏の浄土=世界平和には 大きな忘れ物がある

戦争反対や世界平和を唱えている宗教団体、政治団体は数限りないし、最近では人間を大事にする現実の社会を作ろうと主張して跳ね廻って踊り狂っている若者もいるのですが、それで人殺しのテロがなくなる理由が見当たらないのです。それどころか世界平和を主張するところに法然念仏の他土に浄土のユートピアを描き求め現実を夢の如き世界に明け暮らす人は少ないようで実は多いのだということです。その証拠には政治改革や社会変革の運動や対話や懇談会や講演会で世界が変わると信じている人が今でも多いということです。そういうのも大事だとは一応は言えても再応は全然言えないのです。そこに大きな忘れ物があるからだ。ユートピアを実現することは未来であれ現実であれ、この世であれあの世であれすべて悪の根源を他に探し求めていているからだ。イスラム教やキリスト教は勿論自分たちの神を完全な善だと信じて、悪魔だとは決していわないのです。儒教・道教も因果に暗くすべての結果は自然(じねん)だとして原因を探らない。日本の仏教にも真言や念仏も現実を回避してあの世や別世界に誘う宗教です。そういう宗教や思想では現実の人間は大切に扱われないわけです。ですから他を悪としてテロとしてなら、昔の十字軍であれば異教徒として殺害が正当化されるのです。それは今も変わらないわけだ。だから人を平気で双方から殺し合いになるわけだ。これが哲学・思想・宗教の誤りを糾すことを回避して、それよりか世界の平和つまり「立正安国論」で言えば法然の主張である「四海の静謐」を収めることが先決であるとして、「法華最第一」の経文を打ち破り、「法華経」を捨てさせて法然先生の「スピーチ集」に採って替えさせたわけだ。

●イスラム原理主義者の「自爆テロ死」と「神風テロ」の正当化

昨年暮れにサラフィスト系イスラム原理主義者の住むパリ郊外を訪ね聞き取りをしたことがあります。彼等は地上の一切の生物を殺害することが神の恩寵に叶うと考えている。そうすると、生きているテロリスト自身の命も同様に殺害しなければならないことに帰結するのではないかと私が問うと、そうだと返答してきた。自爆テロの神風が当然視されているわけです。30年前の話しですがモロッコのアトラス山脈を越えてモーリタニア国境近くのベルベル人が住む村へ行った時に、大都会のラバトやカザブランカの町では手首の根元が切断されて手の先が無い少年を何人も見かけて驚いた。イスラムの刑法なのでしょうか。少年の手があってこれが盗みをした償いだというのは不思議な解釈です。人権を尊厳しない宗教というのは、非常に危険な結果を招くのだということです。創価学会・公明党なども「法華経」の生命尊厳の教えに反して法然流になっているわけで、正しい仏法の因果律に背くわけで、日本国に遠方より戦争の火種を引き寄せてくることになるわけです。


● 人権を尊厳しても 性善・性悪で分断しテロリストとの戦争を是認

人権の尊厳ということは難しいことですが、一つには善悪の根源を他人ではなくて自らの中に位置付けて解決しようとしない態度だからでしょう。宗教も思想もそういう二元論的なものは、どうしても自分が絶対で正しく、他は誤っていて悪摩扱いされがちのようです。私自身の中に悪魔がいて私自身が悪魔であることを認め、その自分の悪魔を自己変革する思想が必要なのだと思います。そのためには、人権の尊厳を主張しながら、何故テロに殺害されたりするのかを知るべきだ。そこにある因果を理解できないのが普通一般の宗教や哲学である。つまり世界平和や反戦を唱えて、殺害されたりするのであるが、これは何故なのかは理解できず、逆にテロ殺害をして解決しようとするわけだ。これが今の欧米の思想の限界だ。キリスト教もイスラム教もこの因果は断絶していて、すべて神の世界で終結している。性善と性悪の対立ではなくて、性悪・性善が不二・相即の関係にあって、それを相互に変換できる「力」が、将来の宗教・哲学の鍵になるだろう。支配も権力も善悪に通じて存在し、一方だけに偏在しているものではないからだ。ダエッシュ(Daesh=IS)だけを悪魔視すればその殺害が正当性を持ってしまうからです。それ以前に於いて、サラフィストでも同じ人間であるということです。テロリストと烙印されれば、有無なく射殺しても良いというのも可笑しいし、テロリストとの戦争というのも全く不思議な表現なのだということです。そういう場面が最近多いのです。

● テロを許すサラフィストや戦争支持の神道、創価学会・公明党を糾す宗教が必要

最近、国鉄の送電線妨害で当時の若い青年たちをテロリストの犯行としたジュリアン・クルパを主犯とする数人の青年の裁判容疑で、パリの上訴院がこのテロリスト説の見解を取り下げた。「タルナック事件で パリ上訴院はテロ犯行視を放棄」は、そういう恐ろしいレッテル貼りによって冤罪まがいの事件であった。テロリスト扱いすることで、イスラム嫌いのフランス人の深層心理で同一視させて扇動しようとした政治家達が意識的に作り出したものであるとされている。ここには人間の尊厳を認める思想や宗教は皆無であるということだ。思想・宗教・道徳などによって人間の行為が左右されるところが大きいわけで、テロを許すサラフィストに洗脳されたり、戦争を許し支援する創価学会・公明党や日本軍国主義の精神的支柱になった神道の伊勢神宮や靖国神社参拝を行う安倍晋三首相などは、当然のこと戦争の火種を遠く国外から呼び寄せることになるわけで、これを糾弾しなければならない。バングラデシュのテロリストによる日本人殺害事件は、遠くにあったのではなくて、日本国内にそれを招く原因があった。その原因が神道崇拝や創価学会の誤れる信仰にあることを知らなけえればならない。フランスなど欧米から比べると日本の仏教や神道による誤りはより重大であるのはその思想性が極めて狡猾で、生命尊厳の「法華経」否定をやっているからだと言える。(文字数 ;3053)

この私の文章は客観性が無いという見方もあるに違いない。しかしテロリストが人を殺害するのに客観性はなくまたそのテロリストを空爆して殺害することにも客観性などないのである。問題は人を殺害しても良いとする思想である。それを許す思想が糾されなければならないということだ。それは殺されたら殺していい。やられたらやり返していいという生命尊厳を逸脱した思想が創価学会のような過去に仏法を学びながら外道(仏教以外の宗教)の法に堕落したことが恐ろしいのである。これは大人が理性・道徳を忘れて酔狂して子供に戻って戦争をしているようなものである。(追記2016/07/04 8:24日本標準時 )
【参考記事】
http://www.franceinfo.fr/fil-info/article/tarnac-l-abandon-des-poursuites-pour-terrorisme-confirme-801601
http://franettese.blogspot.fr/2016/06/blog-post_29.html