2017年11月24日金曜日

仏法は夢の法門を手本にすべきではない 現実に国土世間が幸せにならなければならない

日蓮仏法といっても、日本やヨーロッパの日蓮宗各派や創価学会の理解する仏法というのは釈迦仏を本尊として立てるようになってしまったということです。つまり夢の法門を手本にしてしまったということなのです。ここが日蓮大聖人を末法の御本仏として仰ぐ日蓮正宗の仏観と彼等との違いだと拝します。その違いは国土世間が説かれているかどうか、つまり夢の法門でこの世が終わらないというところが大事なのだと拝します。それは、社会革命とか人間革命とかの改造論ではなくて、つまり何かを壊し捨てて別のものを建て上げるのではないということなのです。ありのママのものを開いてもともと其処に蘊在する総ての可能性を開花させるということです。ですから日蓮大聖人の仏法から見ると、天台の一念三千論も仏教的見解の一つの図式でしかなくなるわけですが、これが日蓮大聖人の仏法では特に大事で、私たち自身の中に顕現する仏という理解を一応の立場でしか採らないということなのです。

ですから中風を患ったままの覚者などというのは現実的には可笑しいのです。やはり即身成仏ですからそのままの姿であっても苦を楽と開いていけなければならない。その前提には、あらゆる様々な生命に於いて仏もサタンも一緒に宿っていなければならないということが、このサタン内在を指して性悪といっている場合もあるようです。つまり十界の生命がバラバラに分段されて仏も菩薩も餓鬼も地獄も分かれているのではなくて十界互具していなければならない。
キリスト教徒に、キリストの生命にはサタンがいるとか悪魔の生命が宿っていると説明すると、眼を怒らせて瞋恚の姿を現じて否定して見せるのです。その時に、このキリスト教徒はこれまでの優しい温和な姿を一変させてまるでサタンを見た様に憎む心を現じてみせる。そのことに彼れ彼れのキリスト教徒は気が付かないのです。自分の心の中にユダヤ人や異教徒を殺害したりするサタンがいるということをです。
そこに日蓮大聖人の仏法と、釈尊を仏にして善悪の区別を立てる、つまり超越的な仏として釈迦仏を信仰の祈りの対象物の背後に立て挙げるという誤りがここ数十年前から世界的に流行してきたのです。それを絶対とする仏教が釈尊を仏に立てる日蓮宗各派や近来の創価学会など一般の仏教観なのだということです。
フランスの創価学会ではこのような日蓮大聖人が顕された御本尊の背後に、更に宇宙根源の仏というものを立てたわけです。それは日本出現の日蓮大聖人のことではなくて、インド再誕の釈尊の更にその昔の三千塵点劫や五百塵点劫下種の久遠仏をもって仏としているのです。なかなかフランスの仏教学者等は勉強していて天台の法門に堕ちているわけです。
ですから末法の娑婆世界説法教化を説かない現実逃避の釈迦仏教になっているわけです。これでは現今の不幸や問題を解決できないわけです。創価学会・公明党を見ればそのことがわかります。反戦・反核・平和の団体だったのが、核の平和利用ならば核開発も良いとしたのは池田大作でそれを受けて公明党は安倍を支持したのです。日本の問題を解決できないどころか、戦争に日本の国民を奴のように駆り立てているのに協力している。彼等創価仏の信仰が釈迦仏教に堕ちていることがわかるのです。

国土世間とは三世間の中の一つです。世間は差別を基にしていてこれは釈尊の教えが髄他意で衆生の異なりにを根拠にして立てた法門だからですが、これでは人間のいる国土世間に仏がいて衆生を救うことを意味しないで、他方の穢土や別世界に誘って衆生を救うということになってしまうということです。現実の国土世間を舞台にした娑婆世界の説法教化がなければならないということです。この教えの具体的な表れが日蓮大聖人の末法御出現の姿にあると拝するのだと思います。つまり精神世界や夢の世界で修行するだけでは終わらせない、むしろそういう釈迦仏教の在り方を否定している。それでは真実の救いにはならないと言っているのだと拝したいのです。