2017年12月20日水曜日

元旦を超える「元三の志」に始原性を立てない本因妙の仏法がある 

先日私の先輩が本駒込の町内掲示板を写してアップされていて非常に懐かしく見たわけです。本駒込一丁目の斜めに入る小道の角に本当に小さな浅嘉交番というのがあった。私はその近くに住んでいた。掲示板はほとんど覚えてませんがなんとなくあったような気もするわけです。その近くには店先の公道にコンロを置いて焼く煎餅屋や、木刀を作ってうる店があった。そういう古い小さな店が残っていて私は靴屋の裏に住んでいた。この町の掲示板には神社の初詣の案内掲示が写っていた。それで新年の初詣のことをいろいろと考えていたのです。フランスは今はクリスマス一色という感じです。日本はやはり新年の三ヶ日を祝うわけです。この東西の比較は年末を祝うか年始を祝うかということで、その理由を、因果の始めを祝うのか結果の方を祝うのかとの違いを考えていたのです。始原性を立てない本因妙の仏法があるということです。

ところが神道なども年始を祝う初詣を行るわけですので、そこに因果的な何がしかの理由があるのかどうか。年始を祝う意味を知りたくなりました。日蓮正宗では日蓮大聖人が書かれて御書に年の初め春の始め月の始め日の始めを祝うことが多くの福運を招き寄せることが書かれている。しましまた元三の志、元日にも超えともあるのです。そして更には、時事念々常道の成仏ということもあってこれは本因妙の発心の仏教からみれば当然のことであって、時事念々の即身成仏というのがあるわけで、いつでもがどこでもが発心の出発点になるという意味からすると元日だけではないということになる。それで日蓮大聖人は元三の志と言ったのだと拝するわけです。そこに日蓮大聖人の仏法の本果妙でない本因妙の深い意味があるのだと思うわけです。