木村尚三郎著「都市文明の源流」(東京大学出版会 UP選書 1977年11月7日初版)という非常に魅力ある題名の本が私の本箱にあった。パラパラとページをめくると何箇所かに、「781020」という日付けの入ったふしんばさみが挟まっていて、本にはあちこちに赤線が引かれ書き込みがしてあった。勿論のこと私の関心はその頃とは異なっている。
今回新たに手にしてみると次の二ヶ所が特に面白かった。一つは欧米と日本との時間論でこれを比較して論じている箇所(152頁~161頁)である。もう一つは欧米社会と日本とを牧畜と狩猟に対比させておいて、一方は文化であるが一方は野蛮であるとしてみせた箇所(226頁~230頁)だ。つまり、《欧米=牧畜=文化》だが、《日本=狩猟=野蛮》という認識だ。
欧米と日本との時間論の比較のところで著者は、カテドラルの建設が早いことを指摘している。しかしその原因が何であったかを書いていない。著者は、152頁でサンドニ教会の建設が異常に早いことを書いている。著者がゴチックの意味を本当に理解していれば、「しかし全体が完成したのは、やはり一五〇年後の一二八二年のことであった」とは書かないはずである。
「カテドラル建立に一〇〇年、二〇〇年懸かるのは珍しいことではなく」と著者はいい、他方で「サンドニ修道院の場合は、ファサード、内陣、地下室が一一三六年から一一四七年までにでき上がるという異常なはやさであった」と著者は書いている。ここにある一つの混同があったようだ。教会建築の献堂式は内陣が完成した段階で執り行われるので、「全体が完成」した年代を取り上げて長くかかると指摘する必要はない。
カテドラルはゴチック時代のものであり、ゴチック建築は早く建つことで有名なのである。サンドニ教会が早く建ったからといって当然なことであり、著者のいうように「異常な」ことなのではないのである。
そしてここでの、「地下室」の文字には「クリプト」とルビがふってある。しかしクリプトというのはギリシャ語で「隠れた空間」のことであり、クリプトは地下室とは限らないし地下礼拝堂でもないのである。フランスにもクリプトを持つ教会は多いが必ずしも地下室という意味は必要ではないのである。
156頁では著者の主張として、「物事の始めと終り、生と死をはっきりと意識するからこそ、現在を過去(生誕)と未来(目的完遂、死)の双方から測るという歴史意識が生じうる」「自らの一生をこえて可能な限り目標を高く掲げることによって、生涯を目標への重要な一過程とし、充実した生とすることができる。ヨーロッパ人が中世のカテドラル建立に見られるような長期計画に生きえた秘密は、そこにあると思う」と言っている。しかし、時間の問題で言えばゴチックはプレハブなのである。資金があればカテドラル建設は木村氏の強調するようには長期間を要しない。
「時には必ず始めと終り、生誕と死滅があるという観念も、ここから強く植えつけられたに違いない」(155頁)と著者はいう。「ここから」とは、前段初めの文である「砂時計や水時計、それにローソクを見つめていた中世ヨーロッパ人」のことをいっている。砂時計やロウソクを見つめてヨーロッパ人の時の観念ができたとは少し難しい説明のように私には思われる。
上の指摘は大変に面白いが、生の初めと終りを砂時計から説き起こしたのには少し納得ができない。キリスト教での時間論との関係がここに書かれてないのも不思議である。それはキリスト教は一般に初めと終りのある宗教として認識されているからだ。
著者はこの箇所で直ぐに次のように書いている。日本人は『時を無限から無限への川の流れの如くに考え、つねにその流れの一点を凝視するだけの「瞬間人」、あるいは時とともに自らも流れていくだけの「流転人」である日本人と、ヨーロッパ「時間人」の差はきわめて大きい』と書いているわけだ。
著者によればこの「差」とは「充実した生」のことである。つまり日本人は歴史意識がなく川の流れの如き流転人で充実した人生ではないといっているようだ。これが欧米と日本人との時間論を比較した著者の理解への私の疑問点でもある。
『大聖堂は、奥の内陣がみな東に向いている。「神は光なり」という中世キリスト教の教えにしたがって、朝日の上がる方角に向いているのである。したがって聖堂正面(ファサード)は西向きであり、午後にならないと陽が当たらず、うまい写真がとれない』(155頁)と木村氏はいう。もしも西や東を向く事がそんなにキリスト教の重要な教義だとすれば、教会などを何故西に向けて建てないのか?パリのマレ地区やローマの教会は西に向けて建設されてはいない。つまり正面が西向きであることがそんなにキリスト教の重要な教義であったとは思われない。
次の箇所では、欧米は牧畜で育てた哺乳動物(ここでは牛)は食べても野蛮ではなくそれは文化である。しかし、日本人が自然のままの哺乳動物(ここでは鯨)を取って食べているのは野蛮であるとする認識が書かれている。
動物が動物を食う野蛮性を日本人のする狩猟に当てはめている。欧米人の狩猟は食べるためではなくてそれは王侯貴族が体を鍛えるためのもであったと主張している。たしかに欧米社会の狩猟・採集の深い意味を提出していて興味ある論考となっているとも思えるのだが、以下の点で誤っているように思える。
つまり木村氏は、「欧米人にとって狩猟とは、食べるのを主要目的とするものではなく、高貴な、あるいは真剣な遊びである」、 「日本の捕鯨は、」「まさに食べるための狩猟であるからこそ、牧畜国から野蛮、残酷と非難される」といっている。
動物を真剣になって殺す遊戯というのは未開であり野蛮ではないのか?私にはそう思える。動物は遊戯でもって動物を殺したりはしない。野蛮な人間がそれをするのである。
問題は狩猟の対象が飼育された動物なのか?それとも野生のままの動物であるのか?ではないだろう。牧畜なら哺乳類の牛・豚でも殺害は文化的だというのは言い訳にしかすぎないだろう。そもそも生物をむやみやたらに娯楽で殺害することは良くないことなのだという生命尊厳の意識に欠けるのである。それをなぜ指摘できなかったのかと残念な思いがする。
今回新たに手にしてみると次の二ヶ所が特に面白かった。一つは欧米と日本との時間論でこれを比較して論じている箇所(152頁~161頁)である。もう一つは欧米社会と日本とを牧畜と狩猟に対比させておいて、一方は文化であるが一方は野蛮であるとしてみせた箇所(226頁~230頁)だ。つまり、《欧米=牧畜=文化》だが、《日本=狩猟=野蛮》という認識だ。
欧米と日本との時間論の比較のところで著者は、カテドラルの建設が早いことを指摘している。しかしその原因が何であったかを書いていない。著者は、152頁でサンドニ教会の建設が異常に早いことを書いている。著者がゴチックの意味を本当に理解していれば、「しかし全体が完成したのは、やはり一五〇年後の一二八二年のことであった」とは書かないはずである。
「カテドラル建立に一〇〇年、二〇〇年懸かるのは珍しいことではなく」と著者はいい、他方で「サンドニ修道院の場合は、ファサード、内陣、地下室が一一三六年から一一四七年までにでき上がるという異常なはやさであった」と著者は書いている。ここにある一つの混同があったようだ。教会建築の献堂式は内陣が完成した段階で執り行われるので、「全体が完成」した年代を取り上げて長くかかると指摘する必要はない。
カテドラルはゴチック時代のものであり、ゴチック建築は早く建つことで有名なのである。サンドニ教会が早く建ったからといって当然なことであり、著者のいうように「異常な」ことなのではないのである。
そしてここでの、「地下室」の文字には「クリプト」とルビがふってある。しかしクリプトというのはギリシャ語で「隠れた空間」のことであり、クリプトは地下室とは限らないし地下礼拝堂でもないのである。フランスにもクリプトを持つ教会は多いが必ずしも地下室という意味は必要ではないのである。
156頁では著者の主張として、「物事の始めと終り、生と死をはっきりと意識するからこそ、現在を過去(生誕)と未来(目的完遂、死)の双方から測るという歴史意識が生じうる」「自らの一生をこえて可能な限り目標を高く掲げることによって、生涯を目標への重要な一過程とし、充実した生とすることができる。ヨーロッパ人が中世のカテドラル建立に見られるような長期計画に生きえた秘密は、そこにあると思う」と言っている。しかし、時間の問題で言えばゴチックはプレハブなのである。資金があればカテドラル建設は木村氏の強調するようには長期間を要しない。
「時には必ず始めと終り、生誕と死滅があるという観念も、ここから強く植えつけられたに違いない」(155頁)と著者はいう。「ここから」とは、前段初めの文である「砂時計や水時計、それにローソクを見つめていた中世ヨーロッパ人」のことをいっている。砂時計やロウソクを見つめてヨーロッパ人の時の観念ができたとは少し難しい説明のように私には思われる。
上の指摘は大変に面白いが、生の初めと終りを砂時計から説き起こしたのには少し納得ができない。キリスト教での時間論との関係がここに書かれてないのも不思議である。それはキリスト教は一般に初めと終りのある宗教として認識されているからだ。
著者はこの箇所で直ぐに次のように書いている。日本人は『時を無限から無限への川の流れの如くに考え、つねにその流れの一点を凝視するだけの「瞬間人」、あるいは時とともに自らも流れていくだけの「流転人」である日本人と、ヨーロッパ「時間人」の差はきわめて大きい』と書いているわけだ。
著者によればこの「差」とは「充実した生」のことである。つまり日本人は歴史意識がなく川の流れの如き流転人で充実した人生ではないといっているようだ。これが欧米と日本人との時間論を比較した著者の理解への私の疑問点でもある。
『大聖堂は、奥の内陣がみな東に向いている。「神は光なり」という中世キリスト教の教えにしたがって、朝日の上がる方角に向いているのである。したがって聖堂正面(ファサード)は西向きであり、午後にならないと陽が当たらず、うまい写真がとれない』(155頁)と木村氏はいう。もしも西や東を向く事がそんなにキリスト教の重要な教義だとすれば、教会などを何故西に向けて建てないのか?パリのマレ地区やローマの教会は西に向けて建設されてはいない。つまり正面が西向きであることがそんなにキリスト教の重要な教義であったとは思われない。
次の箇所では、欧米は牧畜で育てた哺乳動物(ここでは牛)は食べても野蛮ではなくそれは文化である。しかし、日本人が自然のままの哺乳動物(ここでは鯨)を取って食べているのは野蛮であるとする認識が書かれている。
動物が動物を食う野蛮性を日本人のする狩猟に当てはめている。欧米人の狩猟は食べるためではなくてそれは王侯貴族が体を鍛えるためのもであったと主張している。たしかに欧米社会の狩猟・採集の深い意味を提出していて興味ある論考となっているとも思えるのだが、以下の点で誤っているように思える。
つまり木村氏は、「欧米人にとって狩猟とは、食べるのを主要目的とするものではなく、高貴な、あるいは真剣な遊びである」、 「日本の捕鯨は、」「まさに食べるための狩猟であるからこそ、牧畜国から野蛮、残酷と非難される」といっている。
動物を真剣になって殺す遊戯というのは未開であり野蛮ではないのか?私にはそう思える。動物は遊戯でもって動物を殺したりはしない。野蛮な人間がそれをするのである。
問題は狩猟の対象が飼育された動物なのか?それとも野生のままの動物であるのか?ではないだろう。牧畜なら哺乳類の牛・豚でも殺害は文化的だというのは言い訳にしかすぎないだろう。そもそも生物をむやみやたらに娯楽で殺害することは良くないことなのだという生命尊厳の意識に欠けるのである。それをなぜ指摘できなかったのかと残念な思いがする。