2018年1月1日月曜日

「元三の御志」と言われた深い意味を噛み締め 新年のご挨拶

先日ドイツ人の方からご質問があり、その御返答の文に少し付け加えさせて戴き、ここであらためて新年のご挨拶といたします。この方は日本語を勉強されたドイツの方で、哲学することが好きな方です。私の返答は答えになっているかどうかと心配します。ですが御質問でもありますので、少しお話ししました。ご質問は私が因果関係を立てて考えているのか?ということでした。因果を立てるのは二元論だとして、それを立てない思考というものがあるのです。時々・刻々の「一念」というのは、別な表現では「発心」(ほっしん)とか、たえなる「決意」等になるのかも知れません。この因果をバラバラにして時間空間の隔たりに於いて関係している存在だとする考えを採らないのです。そうだと結果だけを祝福しがちになるからです。日蓮大聖人が「元三の内に」(がんざんのうちに)とか「元三の御志元一にも超へ」と言われた深い意味を噛み締める昨今です。どんな時でも絶えず因果一念の因を作ってゆくという志ある良い新年であることをお祈りいたします。(‎フランス時間 31/‎12/‎2017 18:48:01)


本因妙という仏法は日蓮大聖人のもので、釈尊の教えにさえないものなのです。キリスト教なども、一年の終わりに霧のベールに隠された出所の解らないミステールで不思議な贈り物(プレゼント)を喜ぶクリスマスがあるわけです。奇跡を求めて幸運のロト(籤引き)を催したりして、一年の決算をクリスマスで祝うわけです。コングラチュレーションという祝辞は神の良い恩寵を分け合う招きということで、人間の手に把持された原因で物事の結果を作るという思想からのものではなのです。キリスト教ではこの年の初めにはつまり原因結果の因を元旦に込めて祝うことをしないのです。年の初め春の初め日の初めという新年に意義を見つけた行事ではないのです。


無因無果、有因有果、無果有因、無因有果などがこの二元論の思考にはあるのだと思います。思いますが、しかしここには因の中に果があり、果の中に因があるという思考はないのです。「因果異時」の考え方はあっても、「因果倶時」(いんがぐじ)の考えがないということです。

この「因果倶時」の考え方は、原因と結果が別々に時間的な隔たりを持って在るのでは無くて、因と果が一緒に共に存在しているという考えかたです。しばしばこれを蓮華(れんげ)の花と実に譬(たと)えて言い、比喩蓮華(ひゆれんげ)とも言います。蓮華の花は華と実とが一緒に同時にあるためです。

日蓮大聖人の仏法というのはこの因の中に果がすでに具備しているという「因果一念の宗」ともいわれる思想で、これは世界広しといえども日蓮正宗以外にはどこにもない考え方なのです。その為に新年の始めが1月1日で元旦ですが、日蓮大聖人は「元三の志(こころざ)し」と言われ、一日だけを祝う訳では無く、そこに始源性を立てない、つまり元日だけを因の始めだとして限定していないと私は拝するわけなのです。つまり因果に因を始めとし果を終わりだとして見る立て方をしない思想だと見るわけです。因と果が倶(とも)に共時的に即時に備わっている。

その為に実は新年の一日だけではなくて二日目でも三日目でも・・・或いは何時・何時でもその刻々の一瞬に於いて、因果の総てがあると別しては考えられるのだと拝する訳です。その時々刻々の一瞬をこそ大切にする考え方なのだと思います。その一瞬の一時に総てがある。その一瞬にこの総ての因果を収めている。因を作ることが果を既に内包させて結果を実現させてもいると考えるわけです。ですから日蓮正宗のことを「因果一念の宗」などとも呼ぶわけなのです。
この法理を示された日蓮大聖人の御本尊のある日蓮正宗の御宝前へ詣でられて今年の決意をして行くことが非常に大事であるということです。他の因果に迷うキリスト教や或いは真言・念仏など更には大社や神社神道、それを支援する創価学会・公明党の文化会館などに参詣でることは、破国の因縁を国の中だけでなく外からも呼び寄せるようなものだと言う事です。