2011年6月13日月曜日

村上春樹氏の「カタルーニャ講演」への疑問──福島の現実こそ訴えよ

「我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです」と村上春樹氏が結論する場合の「非現実的な夢想家」というのは、「原発に疑問を呈する人々」のことだ。ここが講演を聞いていて少し判りにくいところではあった。講演では、核エネルギーの転換を主張するものではあっても、その解決方法としては、人類のエネルギー観の転換ではなかったし、ましてや広島・長崎に始まる原子力爆弾の日本人の苦悩、そして福島の原発事故へと連続する日本人の宿命の転換方法を提示したものでは全然なかったということである。そこが空洞となっていて物足りなさと論理に矛盾を感じさせるのである。



村上氏のこの講演は非常によく組織だって周到に述べられていると思える。

講演では「夢」や「理想の追求」が新たな精神の再編成となり、ヒューマニティ再生への新しい価値観を打ち立てる出発点となるといっている。

しかし結局は、村上氏の主張される「非現実的な夢想家」の理想とは、まさしく、同氏が批判された日本の伝統的な思想としての「無常観」を部分的には押さえて批判の対象として見せはするが、結局は「非現実的な夢想家になる」という同氏の結論は、現実逃避の「念仏思想」で「無常観」を鋳直したものに過ぎないのではないかというのがわたしの疑問だ。

つまり広島や長崎の原爆の悲劇を日本人が忘失したのには、同氏は日本の伝統思想と名づけて見せたところの「無常」観があるとしてその責任性をそこに寄せながら、村上氏は「非現実的な夢想家」(の観念)でそれを乗り越えようとして見せている。しかしそれは仏教の「無常」観を、念 仏の思想である「非現実的な夢想家になる」考えに置き換えたものでしかないと思えるのである。

村上氏の述べた「無常」観を中心とした伝統的な日本美の捉え方の中で、「無常」思想の一律的な主張だけではなくて別の前向きな精神性の存在を指摘しているくだりがあったが、この指摘は重要なのだが、ほとんどその納得いく回答が提出されてはなくて、「非現実的な夢想家になる」という答えを提出したために、逆に本当の解決を封じ込めて
遠ざけてしまったようで残念である。

村上氏のテーゼであった「どうして戦後の広島・長崎の原爆投下で日本人が抱き続けてきた核に対する拒否観念はどこに消えてしまったのでしょう」「一貫してわたしたちが求めてきた平和で豊かな社会は何によってゆがめられ損なわれてしまったのでしょう」という、素晴らしい認識からの問いも、その答えとなると「それは効率です」と結論して閉塞化してしまっている。

そしてその解決策として「私たち日本人は技術を総動員し叡知を結集し、社会資本をつぎ込み、核にかわるエネルギー開発を国家レベルで追求するべきだ」と平凡な答えを出している。これは解決策のまさしく核の
代案でしかないのだ。
しかし問題提起の本当の回答はそういうことではないはずである。問題はどうして日本人が「効率」に負けてしまったのかをこそ問うことであった。それを村上氏は避け問題をずらしてしまっていると思える。

この「効率」の実現化こそは、民衆に夢を絶えず見させ続け、非現実の世界にいざなう夢想家の仕掛けたた魔術によってなされてきたということをもっというべきではなかったか。

つまり地上の現実から乖離させるべく、村上氏の主張である「非現実的な夢想家になる」ことが、そしてそのような夢想家の礼賛者に読者がなることこそが日本の原子力爆弾を許すことに近年なってしまったのではないか、そして原発を認めてしまった本当の原因なのではないかとわたしは考えるのである。

単に「原発に疑問を呈する人々」に対しては「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られてゆくのだということを指摘することではなくて、その「非現実的な夢想家」というレッテルを甘受しないで打ち消し否定してゆくことこそが、地上の生活を大切にしないで福島現実を誤魔化す無常観や念仏の厭世思想に毒されない精神の対抗策とまずはなるのだと思うからだ。

日本の現実を無常」などで解説して事足れりとしては当然ならないし、同時にまたそれを批判的に捉えた場合でさえも原発に疑問を呈する者が「非現実的な夢想家」のレッテル貼りの被り物を与えられた場合には、当然これを厳しく拒否しなければならないはずだ。それは福島の現実をこそ訴えていく姿勢である。

(参考記事)