2014年5月19日月曜日

シリアのアサドによる独裁者の戦争死亡数は 16万2千を超えた

英国ロンドンに本部を持つシリア人権擁護団体(OSDH)が2011年3月から現在までのシリアでの死者数は162402人を記録したと19日に発表した。その内で、市民は53978人を数える。子供の死亡数は市民の数の内の8607人となっている。2011年末からのアラブの春による独裁者のドミノ崩壊は今アサドのところで止まった。それを傍観する国際社会をいいことにその犠牲者数は毎日増え続けている。


シリア反体制派の戦士の爆撃死数は42701人で、その内の13500人以上の死者数はイスラム教徒「布教と聖戦のためのサラフ主義集団」の反アサド主義派アル・ヌスラ戦線とイラクの聖戦主義者たちであるとしている。2014年4月のOSDHの発表では死亡者は15万人であった。
発表は医師や軍の報告を元にしたもの。

アサド体制側の死亡者数は61170人。その内の37685人が兵士で、民兵組織は23485人とOSDHではいっている。

同様にアサド体制側に見方したレバノンのヒズボラ(シット派)は438人が死亡した。アサド体制軍支援の外国人の死亡数は1224人。OSDHでは2891人の死亡数に関してはその身元が不明であるといっている。

2011年3月、シリアの政府への反対運動の発火点となったシリア北部の町オムスで、独裁者アサドに対する批判からこれを包囲したアサド軍の戦車部隊が市民に向けて大砲を撃ったことから虐殺が拡大した。アサドによるサリンなどの化学兵器の使用も問題になっている。

2011年末から2012年春にかけてアラブの春の動きが活発化していて、独裁者のドミノ崩壊を恐れたアサドは、国連の拒否権を持つフランスの友人サルコジ前大統領に支援を求めパリを訪問した。その時にサルコジ氏の最も気にかかっていたリビアの独裁者カダフィの消息情報との取り引きがあったと推測されている。サルコジの2011年の仏大統領選挙資金がリビアの独裁者カダフィから流れているという疑惑があったからだ。

その後カダフィは何者かによって砂漠の中で発見されて、オランダのハーグの国際刑事裁判所(ICC-CPI )で裁かれる前に、すぐに殺害されている。