チャリー・ヘブドの事件後、フランス共和国の表現の自由が様々に勝手に解釈しなおされて、初めの意味から脱線してきているように思える。私が驚いたのは、英国在ジャーナリスト小林恭子さんのこの問題での回答と思われる(風刺とジャーナリズム2015年1月14日などに掲載された)などの文章だ。次のようになっている。これは大事なので引用しておくと、『「すべてが風刺の対象になるべき」という主張を多様な宗教、人種で構成されるようになった欧州市民に強いる部分はないだろうか。「もっと節度のある表現もあってしかるべきではなかったか」という論調を欧州の複数のメディアの一部で目にするようになったのは変化の兆しに見える』、仏テレビ局「フランス24」の討論番組(7日)で、イスラム教徒の地方議員マジド・メサウデネ氏は「シャルリ・へブドは風刺の度合いが許容範囲を超えていると思う」と指摘する一方で、「そんな風刺を世の中に出す権利は認める。同時に、『許容範囲を超える風刺だ』という自分の意見も社会に存在する権利があると思う」と述べた』として、これらの主張を、小林さんは、欧州で異なる文化・宗教を持つ人たちがいっしょに仲良く住むためだとして、援用したことである。つまり「許容範囲を超える風刺」というのが(シャルリ・へブドのように)あり、これは「もっと節度のある表現もあってしかるべきではなかったか」「表現・言論の自由の確保は大事だが、『絶対的な』表現の自由というのもいかがなのものか」と言う主張の小林さんの援用なのである。これはフランスで言う政教分離(ライシテ)ではないし、表現の自由では全然ないのである。
フランスではこれに節度や限界を持たせないのである。絶対的な表現の自由が常に困難で実現できない性格のために、批判や風刺に許容や限界があってはならないのである。もしそこに許容度や限界度を設ければそれは誰かが制限して決めるのであって自由ではなくなるからだ。
ナチスの独裁で表現の自由が狭まった時にはもう手遅れであったことをフランス人はよく知っているのです。わざと隠されていて知らされてないのか、日本にはそのことに気がつかない人も多いようです。もちろん小林さんは、フランス人が死を賭してまでこの表現の自由に価値を認めていることを承知しているのは言うまでもないことです。