2013年11月7日木曜日

戸田城聖の無量義経の悟りとは「其の身」の文字を「仏」だと変えた経典改竄

経典改竄は邪儀である。創価学会第二代会長の戸田城聖は「戸田城聖先生 質問集」(昭和38年)の中で、創価学会の生命論の出どころとなった「無量義経徳行品第一」の経典を引用している。その経典の箇所には、「仏」という文字は無いのにもかかわらず、戸田は勝手に「無量義経」の経典に「仏」の文字が有るかのように誤魔化してこれを解釈・添加して、「仏とは生命なり」という創価学会の生命論の基礎を立てた。その誤れる創価学会の生命論の基礎とは、「無量義経」の経典にはない「仏」の文字を添加して書き込み、その上で戸田の獄中の悟りとは「法華経」からの悟りだと二重に偽って誤魔化して作ったものである。

「四十余年未顕真実」の文は無量義経に 法華経の開経の意味を誤る戸田城聖

したがって、戸田城聖の獄中での「無量義経」からの悟りというのは、「法華経」の悟りでは無かったのだということである。

創価学会が仏法違背を続けていると、日蓮大聖人が「立正安国論」で指摘された三災七難、地震や津波のような天変地夭(てんぺんちよう)が起こり、飢饉疫厲(ききんえきれい)がやってくるのではと心配するのである。

嘘・誤魔化しが生命論の原点で良いわけがない

創価学会の戸田城聖の弟子たちは、無量義経を読んで「仏の生命を悟った」という師の『獄中の悟り』を正当化するために、無量義経の誤れる戸田の解釈を継承する。戸田の死後の出版物では無量義経の経典の文字は改竄されている。それは師の獄中の悟りの誤りを隠すだけでなく正当化することになっている。一方、戸田の法華経解釈の誤まりを戸田自身が悔い返した筆は、弟子たちはそれを人目にふれないように隠した。創価学会は、戸田が手にして読み、彼独自の悟りを得たという無量義経徳行品第一の経典にある、「其の身」という文字を勝ってに削り捨てて、その代わりにその経文には無い筈の「仏」という文字を入れた。摩り替えの誤魔化しの経典解釈から戸田の獄中の生命の悟りができている。創価学会はこれを戸田の法華経による悟りだとして生命論の邪儀をつくった。


「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年 創価学会)発行に、「無量義経」に無い筈の、「仏とは」の文字が挿入


この無量義経徳行品第一の経典にある「其の身は」の箇所を「仏とは」にすり替えている。この創価学会のすり替えは「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年年8月2日 創価学会 発行、8頁3行目)に出ている。

 
以下の掲載した写真に出ているように、「仏とは何であろうか、いるのか、いないのか」と考え、仏教書を読んだがわからず、無量義経につきあたりました。それには「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、」(無量義経徳行品第一)とあり真剣に悩み考えたすえ「仏とは生命なり」と考えが開けました。このようにして経典には無いはずの文字、つまり、「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、」(無量義経徳行品第一)と経典にあるとした。本経に「其の身」とあるのを削って、創価学会は「仏」に摩り替えて出版した。






「無量義経徳行品第一」の経典では、どうなっているのか

本当はこの箇所の「無量義経徳行品第一」の経典では以下のようになっていて、創価学会が改竄し添加した「仏」の文字はないのである。経典では、「其の身は」となっている。これを創価学会は削り隠し「仏」の文字に摩り替えたのである。




『新編妙法蓮華経并開結』(平成10年4月28日 大石寺発行 )の「無量義経徳行品第一」のその箇所には、「其身非有亦非無・・・・・・」(同7頁の最後の行~8頁)と正しく「其の身は」と書かれている。 同頁の下段にある現代書き下し文でも、「其の身は有に非ず亦無に非ず・・・・・・」と正しく「其の身は」となっている。創価学会が書き換えたような「仏とは」とこの箇所はなっていはいないのである。




「無量義経徳行品第一」 戸田城聖氏が読んで悟ったという34の非文字の箇所とは、上写真掲載の7ページの最後の行から始まる「其身非有亦非無」と次の8ページに続く箇所である。


創価学会のこの経典改竄は「戸田城聖全集」(池田大作編集、和光社発行昭和40年12月10日)でも、同様に誤りを正さずに誤魔化して、無量義経徳行品第一に無い筈の「仏とは」の文字を加えたままだ。


戸田城聖が『獄中の悟り』を得たという、獄中で読んだ「無量義経徳行品第一」で出てくる三十四の非文字の箇所には、本当は「仏」という文字は存在しないのであった。
ここで明らかなように、創価学会によって経典の書き変えが意図されていることだ。さらに重要なことは、この戸田の誤った解釈を元にして創価哲学の原点となる「生命論」ができているということである。つまり、創価学会の「生命論」はこの戸田城聖の獄中の経典拝読にあったからだ。戸田が読んだのは「無量義経」であった。『真剣に悩み考えたすえ「仏とは生命なり」と考えが開けました』とある。「法華経」ではなかったのである。


日蓮大聖人の御書には、師の誤りを隠す弟子がいると


日蓮大聖人は、諸御書でこの仏法の正義の味を誤魔化し隠すことについて、次のように言われている。各自「御書」の本文を参照してほしい。
「弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども弟子ども隠せしかば」「末の代はいよいよ・あをぐなり、」(種種御振舞御書)
「弟子ども隠せしかば」(種種御振舞御書)
「謗法の失を恣(ほしい)ままに覆(おお)いかくすなり」(第二捨父逃逝の事 御義上)
「深くその根源を隠し て候へば」(本尊問答抄)
「教を匿(かく)さざれ」(聖愚問答抄)
「仏法のあぢわいをたがうる人は」(妙一女御返事)
「私の言をそうるゆ へに」(衆生心身御書)
「私の筆をそへ仏説のよしを称す。」(破良寛等御書)


弟子が師の誤りを隠すと日蓮大聖人が指摘されているが、このような経典改竄の罪は重いに違いない。

今の創価学会員は仏法を学んでいるようではあるが、二重三重に隠されて盲目にされていることを知らない。戸田城聖の『獄中の悟り』こそは戸田が拝した「無量義経徳行品第一」からの悟りであった。創価学会の原点となった戸田の『獄中での悟り』そのものが、仏法の経典改竄を基礎にして作られたもので、そこにすでに創価学会の今日の限界があったということだ。



創価学会の経典改竄の理由は?

 何故このような経典の改竄を創価学会はしなければならなかったのかということだが、一つにはそれは創価学会の戸田城聖が「無量義経」を牢獄で読んで、「仏の生命を悟った」という『獄中の悟り』を正当化するためであったと考えられる。 戸田の読んで悟った悟りだが、その依教(えきょう)となった「無量義経徳行品第一」の経文上に、「仏」という文字が無かったので、どうしてもそこにこの文字が欲しくて書き換えをしたのだと考えられる。

経典改竄をしながら仏典を読み解説する創価学会とは何なのか?という疑問がそこから起るだろう。

同様な摩り替えの邪儀は、以後の創価学会の出版物にもある。後になって出版された「戸田城聖全集」(池田大作編集、和光社発行 昭和40年12月10日) 9頁の後ろから3行目でも、同様の誤りを正さないでいる。

「戸田城聖全集」(池田大作編集、和光社発行 昭和40年12月10日。9頁の後ろから3行目)

 池田大作編集、和光社発行(昭和40年12月10日)の戸田城聖全集においてもこの摩り替えのトリックは継承され続けている。
これが有名な創価学会の生命論の原点である戸田城聖の獄中の悟りの経典的な出どころであったが、それは誤魔化しの嘘から出来上がったものであったということを理解すべきであろう。
このような創価学会の所業をさして、日蓮大聖人は、「仏法のあぢわいをたがうる人は」(妙一女御返事)といわれ、「私の言をそうるゆ へに」(衆生心身御書)と言われているのだろう。