2015年7月21日火曜日

大量虐殺だけではなく、一人の人間の殺害を絶対に許さない思想が必要 創価学会の誤りは釈尊観の誤認から

「一人の人間の殺害を絶対に許さない思想」が無い限り、人間を戦争だけでなく日常において殺害したり犠牲にすることが許される。これがこれまでの欧米や日本の戦争へと兵士を送って敵と戦わせ殺害し殺害されてきた現実の姿である。どんな宗教や哲学や道徳にもこの点が欠けている。人を殺すなとはいうことがあっても、それは何故なのかどうして人を殺害してはいけないのかを説明できてはいない。「人を殺すな」とか「戦争は反対」と叫んでみても独裁者が出現して人を殺害させることを止められないのでは何の力もない。これを阻止できる思想が必要だ。それはつまり「一人の人間の殺害を絶対に許さない思想」のことである。(パリ=飛田正夫 2015/07/21 13:37日本標準時

この件関連して、私のFB掲載の記事「オスカー・グローニング(94歳)に4年禁固 裁判判決はアウシュヴィッツ殺害参加者は総て責任者」に対し、次のような短いが非常に重要なコメントを遠藤正雄さんからいただいているので少しこれを検討しながら人間の尊厳を考えてみたいと思いました。「釈尊に始まる、日蓮仏法。三世の生命観から、殺生を禁じています。お釈迦さは、如我等無異と、誰人もその境涯に成れると説いてます。静岡 遠藤。https://www.facebook.com/masao.tobita.77/posts/655076164629400?comment_id=655128111290872&notif_t=feed_commentというものです

「アウシュビッツ収容所では1940年から1945年の間に110万人が殺害され、その100万人ほどはユダヤ人であった。大量虐殺では量をいっているが、基本的には1人でも殺害することは許されない。ドイツにもそしてフランスにもキリスト教やイスラム教には人間を殺害することを絶対禁止する思想がなく、世界の宗教や道徳にこれが無いことが問題なのだ。もちろん日本の神道も同じで人を殺害することを許している。戦争を許している。こんどの裁判は、たとえ直接手を加えなかった人もこの虐殺に参加した人たちを裁くことにしたのはよいことである。」https://www.facebook.com/masao.tobita.77/posts/655076164629400?comment_id=655128111290872&notif_t=feed_comment

日蓮大聖人の仏法の理解というのはなかなかよく理解されてないために上掲したように、一応の立場で一般論として書いた次第なのです。

そこでは、なぜ人の生命は尊厳され絶対に殺害されてはならないのかという問題がある。これをきちっと説明しなければならない。人間がいかなる理由で尊厳され殺されないのかということです。

人間生命の価値が尊厳されることとはどういうことなのか、つまり何者にも取って替えらられない、世界で宇宙で最第一に重要であることを確定しなければならないのです。たとえばそれをキリスト教などでは天秤(バランス)で計量するわけです。人間の命を量るということは、これはすでに、絶対的に人間の命は重いとは考えないからです。ですから神よりは軽く人間は扱われてしまうのです。神と人間が天秤にかかれば、いつでも人間が価値のない裁かれる存在になるのです。キリスト教では神と人とを同じバランス上に乗せること自体を絶対に許しません。そこに神の尊厳を認めて人間の側の尊厳が否定されているからです。そういう差別があるわけです。

ですから、遠藤さんのいわれた、「 釈尊に始まる、日蓮仏法。三世の生命観から、殺生を禁じています。お釈迦さは、如我等無異と、誰人もその境涯に成れると説いてます。」といわれる場合には、これは一応の一般論の見解ではそうなりますが、この釈尊と日蓮と我等の間での平等はというと、一応に対する再応の辺では、前述のようにはならずこの見解は否定されるのです。どういうことかと申しますと、「仏身観」ですがこれは釈尊と日蓮大聖人とでは、「三世の生命観」の所謂、人と仏との平等観の見方が全く異なってくるのです。

ですから「如我等無異」と釈尊がいっていても、この方便品第二の経文を文上で読んだ場合には「人と仏は皆等しく異ならない」と言っていることでそれでいいのですが、荘厳された仏様と殺害殺生を行う我々人間とがとても同じだとは見えにくいのです。何故等しくなるのかの理由がまだあかされてなくわからないのです。有名無実でそこに実体がない。ですからこの「 釈尊に始まる、日蓮仏法。」理解すると、一般の各種の日蓮宗一派や最近の創価学会の考えになってしまうのではないかと思うのです。これは、釈迦がこの世で三千年前のインドに生まれ19歳で城を出て出家、この世で仏陀伽耶近くで30歳で始めて悟達し仏になったという仏身観を始成正覚(しじょうしょうかく)の釈尊観といいます。ここでは仏は荘厳であって、一般の衆生には、仏と等しくなることは実現は簡単ではなく難行苦行だとされたのです。

しかし日蓮大聖人の立場から法華経を文上・文底で読む時には、そういう始成正覚の釈尊観が廃止されて仏と衆生の距離が接近してくる。法華経の文底を示すことで、「釈尊の法華経迹門・本門共にあまり隔たりがないということになって「竹膜を隔つ」(ちくまくをへだつ)違いでしかないことになる。文低の日蓮大聖人の仏法から見るとこれら迹門・本門共が共に相対化されるのです。ですから非常に大事な所ですが、遠藤さんのように「釈尊に始まる、日蓮仏法。」とやってしまうと、文底仏法が読めなくなってしまうのです。そういう立場が今の創価学会の妖変なのではないかと私は見ています。その理由は簡単で、この文低仏法は日蓮大聖人の真意であり日蓮正宗にしか存在しない実儀だからです。その真似や盗作は創価学会はやってもできないわけです。それで別途の法門を立てて、最近の会員たちには怪しい法門を教えているのではないかと見るのです。

ここにおいて、「人間生命の尊厳」の有限性・無限性、「三世の生命観」の断絶・不断絶、「殺生を禁じる、禁じない」とかの、いわゆる「成仏観」を論議できる世界が開かれてくるかと思うのです。つまり法華経では、絶対的に尊厳される人間の生命がどのように説明されているのかということです。

法華経文上の「始成正覚」の釈尊観に固執してそこから見て日蓮を伝道僧・修行僧と見るいるいわゆる日蓮宗各派や、あくまでも仏教は釈尊を仏に立てるのだとする、一般論の見解がそこにあるわけです。これに対しこの釈尊の悟りというのは、インドに生まれた釈迦が自分で修行してこの世で始めて仏になったのではなくて、過去の「三千塵点劫」の遠い昔にその仏に成る種子が下種されてあったのだという見方を打ち出すことにで、これまで固執していた「始成正覚」という生命の有限性(始めがあれば終わりがあるという)の限界を打破して、新たな釈尊観として人間生命の永遠性を提出するわけです。これが法華経迹文の教えであることは言うまでもないことです。

しかしこの法華経迹文で過去の「三千塵点劫」の遠い昔の成道を指し示しても、なおかつ生命の永遠性は遠い過去というだけにすぎず、その性格は絶対的な過去ではなくて、この過去も更なる遠い過去によって相対化されて、有限化されてしまうのです。ですから法華経本文では「三千塵点劫」よりもさらに遠い過去「五百塵点劫」を提出してきくるのは、前の法華経迹文を破るためなのです。生命はもっともっと古い昔からあるのだ、というわけです。つまり法華経迹文・本文共にその成仏できる仏の種の歴史的な「始源性」が問題になっているのです。キリスト教などでは、神の天地創造が世界の始まりとしてあり、やはりそこに「始源性」の問題がつきまとっている。これはこの世が有限か無限か?生命が永遠なのか永遠でないのか?という問題で重要です。ところが先ほども触れましたが、日蓮大聖人の文底仏法では法華経迹文・本文共に「竹膜を隔つ」(ちくまくをへだつ)異なりでしかなくなってしまうわけです。

それではどこが釈尊の仏法と日蓮大聖人の文底仏法と異なるのかというと、この「始源性」の問題をさらに追求していくと相対性の中で更なる過去が次々に出てきてより過去に説かれたのが生命の種ということになりかねないのです。日蓮大聖人の文底仏法では「三大秘法抄」に「当初」(そのかみ)という「久遠元初」が説かれるわけですが、この「当初」の概念は法華経迹文・本文での時間的な過去とは異なっていて、いってみれば更なる過去のことでも天地創造の「始源性」のことでもない。「久遠元初」と「始源性」は相容れない絶対と相対の関係にあると私は見ているのです。そのことを昔しですが、野崎至亮さんという人を囲んでの文京区小石川会館での学生の集会で、以上のようなことを質問したのです。野崎さんはうなずいてさすが文京だね、とその時にいっていたのを思いだします。いまの学会教学はどうなっているのかは詳しくは知りませんが、戦争推進を支援している姿というのは人間生命を尊厳した宗教でも政治団体でもないと思います。正しい信仰を失ったことが残念です。