2015年12月29日火曜日

逃走中の パリ襲撃テロ首謀者 サラ・アブデスラムで分かっている事

モントルーユのコワ・ド・シュボーのメトロ近くの
エドアード・ヴァイヤン通り(Rue Edouard Vaillant)
に乗り捨てられた車セアット(Seat)の場所。
(写真は筆者撮影)
(パリ=飛田正夫2015/12/29 14:40日本標準時)毎日のように話題になる2015年11月13日のパリ同時テロ襲撃事件で現在も逃走中のサラ・アブデスラム(Salah Abdeslam 25歳)のことだが、その役割は何であったのか不明なところが多い。サンドニのフランス競技場に入ろうとしたのか、またパリのレストラン・カフェのテラスを襲ったのか、あるいは情報だけを担当していたのかなど、犯行の首謀者としても今のところは調査でもよくわからない。しかし一つだけ言えることは警察筋の報告からだが、バタクラン・コンサート・ホールの襲撃には加わっていなかったということである。

パリの10区と11区のテラスの襲撃に加わらずにサンドニの「フランス競技場」襲撃に参加したということなのか?そして確かなことは、サラ・アブデスラムはサンドニのフランス競技場の襲撃ではクリオ(Clio)を運転していたということだ。しかしそれは、そこで彼が死ぬことを予測したことを言ってはいない。

テロリストの着た爆弾チョッキが爆発しているころに、彼はクリオでパリに向かっているのが通過確認装置からわかっている。車はパリにはクリニャンクールの門から入いり、21時59分に17区のアルベール・カーン広場(place Albert-Kahn)でクリオを乗り捨てた。そしてその近所で22時30分に電話カードを買っている。この時にはバタクラン・コンサート・ホールでのテロが開始されていた。このことからはサラ・アブデスラムのバタクランへの参加は考えられないということになるのである。アブデルハミッド・アバウドはサンドニに早く行き、パリのテラスには遅れていったのではないのか?しかし、そこで問題になるのは、彼の車クリオがパリ東部のモントルーユでは目撃されていないからだ。

パリのテラスでの殺害は21時30分頃に終わっていた。しかし証人の話しではサラ・アブデスラムはパリに隣接する東部近郊の町モントルーユのコワ・ド・シュボーのメトロ近くのエドアード・ヴァイヤン通り(Rue Edouard Vaillant)に乗り捨てられた車セアット(Seat)にアブデルハミッド・アバウド(Abdelhamid Abaaoud)及び、兄のブライム・アブデスラム(Braim Abdeslam)とが、一緒に乗っていたということになっている。

これ等の仮定の問題点は、時間的なタイミングが逼迫し合っていることだ。これでは、サラ・アブデスラム(Salah Abdeslam)はサンドニのフランス競技場の後でパリの10区と11区の襲撃に参加しその後で18区に彼の車を乗り捨てるにはかなり時間的に無理だということだ。

問題はどうして乗り捨てられていたセアット車の中から見つかったカラシニコフ機関銃の一つからサラ・アブデスラムの遺伝子が検出されたのか?軍隊は多くの人によって混乱させられたのか?いずれにせよ、彼がパリのテラス襲撃の指令者だったということは、信頼性が少ないということだ。対立する調査の結果が、非常に大きな不一致のあることを物語ってきている。

証人によっては、アブデルハミッド・アバウドがテロの隙を狙って、フランス競技場近くの繁みの中に数日間にわたって張り付いて監視していたが、そこでサラ・アブデスラムの姿を見たといっている。この警察の情報は誤っている。

サラは襲撃のあった夜にベルギーに逃げて、その夜にパリに帰っていることなどはできないからだ。このような証言を元にするとサラは何処にでも出没したことになってしまう。彼の写真は政府によって広く配られ、サラ自身も特徴のない普通の北アフリカ人であって、写真を誰もが新聞やテレビでも見ているために、このような現象がおこるのかもしれないと見られている。