2017年1月21日土曜日

米が餓鬼道・紅蓮地獄に堕す前に トロンプには真実の法華経を与えるべき事

(パリ=飛田正夫 日本時間;‎21/‎01/‎2017‎‎-17:35:03)トランプのアメリカ大統領就任演説を聞いて、私は「米大統領就任演説 餓鬼界のトロンプとアメリカをどう救済するか」と思ったわけですが、何故「餓鬼界」なのか?そしてこの「餓鬼界」を救うとはどうすることなのかを少し考えてみた。地獄・餓鬼・畜生というのは仏法では「三悪道」の事である。人を愛(いつく)しみ他者への慈愛の行動を惜しまない人界・天界、或いは声聞界や菩薩界とは到底程遠い低い自己中心的なエゴの渦巻く生命状態なのであって、この三悪道では人間の貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろかさ)が支配する大六天の魔王の所領する世界なのです。この貪・瞋・癡(どん・じん・ち)の三毒の煩悩に侵されると財や富がいくらあっても飽くことをしらなくなるのです。答えを先に短く言うと、餓えたアメリカに本当に与えなければならない筈の「大王膳」を出し惜しみして創価学会が隠してしまって、別の池田大作仏の信仰にすり替えてしまった為に、アメリカの地獄・餓鬼・畜生という「三悪道」は火に油を注ぐが如く燃え上がったということです。
これは出し惜しみの餓鬼道・慳貪(けんどん)の罪によって紅蓮地獄に堕ちて炎の中で苦しむ青堤女(しょうだいにょ)を、ある時に神通第一の目連尊者は見つけこの母親を悲しみ助けたいと思い、水をかけたが返ってこれが油となって燃え上がり、母親を苦しめた。

目連はそれで釈尊の元に走り寄り理由を尋ねるわけです。盂蘭盆会に「法華経」を供養する意味はそこにあるわけです。キリスト教の教えや創価学会の商品化した偽「法華経」の教えでは、返ってアメリカの人々を苦しめるということです。アメリカ人とトロンプには真実の「法華経」を与えるべきなのです。

本当の億万長者ならば、戦乱で家を無くし国が亡んで住む場所も行くべき所も無くなった移民・難民を拒絶せずにこれへ手を差し伸べて救済するのです。キリスト教の「聖書」に手を乗せてドナルド・トランプは第45代目の米大統領に就任を宣誓したのには、そういう宗教的な他者へのキリスト教的ではあっても愛の宣誓があり、不幸で困っている者を援助・支援するというパルタジェとか、或いはコンビィビュアリテとか言った「独り占めしないで、分け合う」同胞の人類愛の精神を神に違った意味がある筈なのです。

ところがこの「聖書」を前にして別な事を宣言したのが今回の米国の新大統領だった。「先ずはアメリカが先きだ」とトランプが主張することは、世界のトップの指導者の言う言葉でもないし、キリスト教の「神」の援助によってアメリカを成功に導くと主張したトランプの発言は虚言になってしまうということです。

おそらくは億万長者のドナルド・トランプはキリスト教徒ではないのでしょう。これは偽証で米国民と神を欺いたことになる。キリスト教さえも商売の道具にしたのかもしれない。宗教を食い物にする者は現代にも多いのです。そのような人を「食法餓鬼」とも言うのです。宗教者や僧侶のことだけではなくて「袈裟を着けない」政治家や有名人にも非常に多いのです。

それはそれで、面白いのですが、何故に地獄・餓鬼・畜生という「三悪道」に堕ちているのかを少し考えてみたい。一つにはキリスト教にはこの「三悪道」のエゴイズムを根本から解決することは出来ないとういことがある。禁止の戒律や道徳では現代人のエゴはトランプの宣言する如く自己の欲望が先行し、他人を犠牲にした上に一国の幸福や個人の繁栄を築くことを認めてしまうのです。

「法華経」には「如従餓国来忽遇大王膳」(にょじゅうけこくらいこつぐうだいおうぜん)とあって、このような「三悪道」に堕ちた億万長者が財は余るほどあるのに、まるで餓えた国からやって来て王様の食膳に遭遇した様であると言うわけです。この「法華経」の「大王膳」に来ないと、餓え渇く貪・瞋・癡の飽くことのない三毒の煩悩は本当には癒されないということなのです。

何故アメリカがそしてその国民がトランプのような人を選んだのかは非常に大事なことであるが、詳しく語る人もない。それは先ほども触れたがトランプがキリスト教の「聖書」を前に大統領就任を宣誓したことと関係していると思われる。これは現代のフランス政治には無い事だが昔の仏王はトランプと同じ様な事をしていたのである。ところがトランプはこのキリスト教の価値を踏みにじって宣言しているわけだ。どうしてなのかというと心が餓えていてこれがキリスト教の禁欲的教えでは解決できない所まで来ていて、口には唱えても心にはこれを破っているというところがあるわけだ。もう一つはこのキリスト教の価値が世界を特にアメリカを救えない状態になってきていることがあって、これに創価学会のアメリカでの最近の変容という問題が介在しているということです。