2018年1月17日水曜日

暴力の無いセクハラは必要 そのフランス的解釈 カトリーヌ・ドヌーブさんを巡って

男女の性愛関係という事が総てセクハラになって犯罪視される世界は全体主義の思考で、愛の表現のかたちが個人様々であるわけで、女性への関心とちょっかいを暴力的なセクハラとすべて同一視して混ぜこぜにしてしまってはならないという重大な発言であった。それは、最近の映画界での下品な性的事件に対して激しい男性批判がアングロ・サクソン系のフェミニストに起こていたことで、これに対してフランスの女優カトリーヌ・ドヌーブさんら100人の女性による注意を喚起しての抗議となっていた。それで大騒ぎとなっている。清教徒の国々でのセクハラ批判の大騒ぎに対して、男性の程度を超えた「暴力」セクハラは犯罪であるが、女性への下手な愛情表現がセクハラ扱いされてそれが犯罪視されてはならないし、それでは糞味噌ゴッチャに論じることになるとして、性の自由を擁護する意味からも男性の限度を超えないセクハラやフランス流の女性へのちょっかい(ドラゲ)を犯罪視してはならないと弁護したわけである。
この点での誤解があったようで、多くの論議がなされている。ドヌーブさんと同じ立場からの意見としては、もしも私の旦那が多少ともセクハラでなかったのであれば、私は今の夫とは結婚していなかっただろうという婦人の意見もあり、男性のセクハラがない社会は全体主義社会で危険だという指摘もあった。

この点で暴力を伴ったものかどうか?合意なのかという点で、ドヌーブさんの主張の受け止め方に誤解があったようである。サルコジ時代の大臣を務め現在欧州議員のナディーヌ・モラノさんは、ドヌーブさんがルモンドに意見を発表した同じ日に非常に歓喜して男性のマッチョー性を擁護したのには私は驚いたが、彼女を再評価したのも事実である。


彼女は始めはセクハラでもそれで一緒にカフェを飲むことになって、親愛な関係に発展する事だってあると指摘している。

また清教徒の国々のフェミニストとフランスのフェミニストとの違いが多少あるようで、勿論フランスにもアングロ・サクソン的なフェミニストはいるのだが、その元々の土壌基盤が異なっているようなのです。ドヌーブさんは前のルモンドでの主張とこの点は今も変わってなく、ルモンド紙での主張で実際にセクハラの「暴力」を受けて傷ついている人に対しての謝罪を、今回リベラション紙に寄せたのでした。