2010年12月12日日曜日

パリ法廷、 ピノチェット独裁政権下の仏人死亡で 米国のチリ・クーデター支持も初言及

 パリ法廷は8日から南米チリのアウグスト・ピノチェット独裁政権下(1973年~1990年 )で死亡したとされる4人のフランス人に関しパリ重罪院でマニュエル・コントレラ秘密警察署長(81)ら14人の高官の関与が審議されている。ル・ロワール予審判事の9日の取調べではピノチェット将軍が推進したクーデターを米国が支持していたことが言及された。裁判はフランス人遺族たちにより、両親や兄弟が誘拐されて違法監禁、拷問を受けて死亡したと訴えたもの。

 フランスのメディア報道によると、同予審判事は南米諸国での殺害同時計画である「プラン・コンドール plan Condor」の創設は、時機を得たもので、共産主義者を排除するのにたいへんに役立つ良いものだ」と、米国務院資料からの認識だとして発言した。裁判で、米国に支持されたクーデターとピノチェット軍事政権との関係資料を基に言及されたのは初めて

 米国の役割については、1976年8月23日付けの米国務省「通達書」には、ピノチェット将軍らのクーデター計画を知っていたことが明かされていた。

 死亡したとされる、ジャン・イブ クロード・フェルナンド氏は1975年11月1日にアルジェンチンのブエノスアイレスで誘拐されたが、フランス側が得たチリ秘密警察資料の中にはその件の記述は存在しないという。

 ピノチェット将軍らは、1973年9月11日のクーデターで政権を略奪。社会主義政権を進めるサルバドル・アジェンデ大統領は戦闘中に自殺。

 ピノチェットは2003年3月に英国政府により釈放されチリに帰国したが、裁判のされないままに2006年12月10日にサンチャゴの陸軍病院で心臓発作で死亡した。ピノチェット独裁体制下で3197人が死亡したり行方不明になっている。パリでの裁判の審議は17日まで行われる。