16日、フランス王アンリー4世の頭部ミイラは科学的鑑定で本物であることが検証されたと発表された。アンリー4世は1610年5月14日(54歳)にパリの現在のレアール地区のイノサント広場近くのフェロネリー通りで待ち構えていたカトリックの狂信者ラバイヤックに短刀で殺害された王だ。公務員を退職した高齢者夫婦のコレクションとして50年来所持されていたが、2008年に2人のジャーナリストがアンリー4世の頭部であることを指摘していた。このほど科学的鑑定に6ヶ月ほどかけてアンリー4世の頭部であることが証明されたと発表された。
アンリー4世はプロテスタント教徒の信仰を都市を限定して許可するナントの勅令を発布し17世紀フランスの宗教戦争を終結しようとしたフランス王家の古いサンルイの系統を引く王でフランス西南部ピレネー地方のナバレ家の出身だ。毎週一回は民衆が鳥鍋料理が食べられるような政治をしようとした人で、宗教的にはプロテスタントの家庭に育ったがカトリックとの間での改宗を何度か繰り返している。このブルボンの開祖の王は今でもフランス人には人気がある。
ミイラの損傷状態が激しいために(DNA)遺伝情報物質体の利用が困難であったが、王が白内障になっていたとか歯がほとんど無かったとか1594年12月27日のジャン・シャテルによる殺害テロで傷を受けていたことなど歴史的な伝承から、検証は法医学的な調査を用いてイタリア人、アメリカ人、デンマーク人など20人ほどが参加して炭素を利用した年代割りや解剖学的に顔の傷や年齢、性別、小鼻の痣(あざ)、耳飾の穴、さらに毒物学やスカナーによる顔面の重ね合わせなど実証的に行われたという。
1789年のフランス革命後の、王党派や反革命派への圧制が高まるなかでルイ16世が1793年に革命広場(現在のコンコルド広場)で処刑される。この時になって王家の墓であるサンドニ教会も荒らされて、アンリー4世の遺体は処刑されるように身体から首が切り離されたわけだ。その後、首は行方不明になっていていたが19世紀にドイツ人のコレクショナーが所持してることがわかっている。1919年にはパリのドルエ館の競売に出されたがブルターニュのディナーの古物商が買い戻していた。