2013年11月6日水曜日

創価学会をめぐる 原子力の軍事利用と平和利用 福島の悲劇の思想的誤り

3月13日、ヨーロッパ・エコロジー・緑の党のエバジョリ欧州議員らは世界人権宣言が発せられた、エッフェル塔の対岸の丘に立つシャイヨー宮殿前で、「福島はパリだ」「原発はいらない」と書いたバンドロールを掲げて連帯の抗議集会を開いた。これがフランス国営放送A2で紹介された。このときに初めて「広島・長崎は福島でそれはパリ」の運命なのだと認識させられた。

広島と長崎に原爆が落ちなかったのならば日本の戦争は終結しなかったかどうかの論議はここではしない。しかし、2011年3月11日に発する福島原発事故の不幸は、この原爆が日本に落ちたことと深く関係していた。それは両者がともに放射能の被爆の問題だからである。

一方は原子力の軍事利用であり他方は原子力の平和利用と呼ばれている同じ危険を内包するシステムであるからだ。核兵器廃絶はその軍事的側面を問題にした平和運動論と結びついたが、被爆や被爆二世を問題にする筋は原発の平和利用の美名の陰にその危険性が長らく隠されてしまっていた。が、福島の原発事故を境にしてその危険性が容易に理解されたのだといえる。

広島・長崎の原爆投下の運命は今や福島だけでなく原発保有国のすべてが、つまりパリをはじめとする全世界が同じ危険に晒されていることが認識されたということだ。そこで叫ばれていたのが「福島はパリだ」というものである。これはパリ市民が福島市民の原発事故下の心境に連帯しようとするものだが、同時に日本と共にフ ランスは原子力開発では世界の指導的な位置にあリ両国が原発を容認する社会と政治であることを表現していて、共に危険な放射能の危機に悩まされているとい うことである。

原爆の放射能被爆の筋というのは日本の平和論や核反対運動では次第に消滅してしまっていったのではないか。広島や長崎の原爆が核廃絶や核拡散防止という核の軍事的利用の反対運動になることで、核のもう一方の危険を見落としてしまったようだ。

これで「原子力が安全でないことが証明された」。「福島はパリなので」あって危険な原子力発電をやめるべきだと訴えたエバ・ジョリ欧州議員はさらに、「専門家がいう、原子力は統御できるという意見は、今日、誰も信じられなくなった」と発言している。

またパリのEELV副書記長の ボーパン議員は「もう遅すぎた。今日、フランスにある34個の原子炉は管理基準を満たしてなくて、信頼できるものではない。つまり安全機能が十分に働かな いということだ」と述べている。


同時にまたそれは、日本が世界で唯一経験した広島と長崎に投下された原爆の放射能につながっている。福島地震の津波と原発基地の事件は「福島・パリ=広 島・長崎」という世界的な広がりの意味をもっているわけだが、ひとまずは原発基地の脅威を共有する我々の運命といういうことで、まさに「福島はパリ」その ものなのである。

それにしてもどうして日本は原爆被爆国としてその放射能の危機と恐怖を忘れて原発基地を許してきたのだろうか。電気をつくるはずの原発基地が電気が停電し て冷却できず、危険な放射能は外に漏れだし汚染が酷くなってしまった。福島の原子炉は爆発寸前の6度のレベルにまでなっていた。

日本は、「広島・長崎」で落とされた原水爆弾の放射能の恐怖と原発基地で起こる放射能漏れとは別なものだという漠然とした認識があったのではないだろうか。福島の原発基地の稼動そのものが、「広島・長崎」で爆発した原爆と相似するものだとは考えられなかったのだ。

原発基地は原子爆弾とは違うのだという誤った認識に支配されていたとしかいいようがないのだ。安全対策の不完全な原子力施設はすでに爆発した原爆と同じだということがわからなかったのだ。

だから「福島」は、今後は世界中の国々にある原子力発電基地は実は、すべてリスクを回避できない不完全なものであって、「爆発しつつある原爆」を抱えた社会の中で人々は生きていたという事実をを教えることになった。

原子力発電は頭上に釣り下がった放射能のデモクラスの剣などではなくて、すでに降下された剣なのである。

原爆反対運動は原爆の放射能の危険を訴える側面がしだいしだいに消えてしまって、核軍縮や核戦争反対の平和運動論になってしまっていた。核兵器に対する反対が政治的な平和運動となることで、核の平和利用ならば許されるという暗黙の容認ができていた。最近では、国連などの国際的舞台で核戦争廃絶を訴えることが平和運動だと勘違いして認識させられていた。そこでは原子力の平和利用にも放射能の危険があることが忘れられていた。

創価学会の第二代会長戸田城聖氏は昭和32年9月に横浜の三ツ沢競技場で「原水爆禁止宣言」と呼ばれる宣言を遺訓の第一だとして当時の青年部に残している。その中で、「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。それは、もし原水爆をいずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります」(戸田城聖先生 講演集 創価学会 昭和36年10月12日発行 347頁)といっている。これが以後の創価学会の平和運動の基本になっている。

戸田のいう原水爆の危機とは「核」の放射能のことであったわけだ。それは必ずしも「核」の「戦争」による放射能を指してはいなかったのではないかということだ。

つまり、戦争をしなくても原水爆弾を落とさなくても、広島・長崎の数百倍以上の放射能をばら撒くことになった福島の原発事故て、日本国民に数百年に渡る放射能の苦しみを回避できなくさせたからである。この放射能汚染の苦しみは「反戦」とか「不戦の誓い」などの創価学会の主張では片付かないものだということだ。

「平和運動の原点、広島と長崎の旗手たち」という一文が収められた「民衆パワーの奔流 ドキュメント 創価学会青年部 松本泰高著 新英出版 昭和58年5月31日 頁90」には、創価学会の平和運動が反戦出版で被爆者体験を扱っていることが書かれている。広島で「被爆体験を聞く会」で活躍していた女性幹部の話しとして、「私自身、母が思い出したくないこともあって、被爆二世ということをほとんど忘れていた。でも、それではいけないという風に私の意識が変わってきた」とある。

ここに原爆に対する純粋で強いインパクトを感じるのだが、しかし、以後、放射能被爆の第二世代の強烈な危機意識は、しだいしだいにうすれてゆくという時代の転換点を示す文章を91ページに見ることになる。「平和運動は、単なる被害者意識だけから出発したのでは運動の広がりに限界がある気がするからだ」。
―― これを読むと当初は鮮烈な放射能の被爆危機の意識が、ここに至って平和運動の広がりの中で最も大事なものを失い窒息したように思えるのである。

創価学会では会長の発言は大事なので、次に池田大作氏の考えを引用しておくと、「とりわけ各時代の人類生存の絶対的条件とは、あらゆる戦争の否定であります。たとえ核兵器を使用しない戦争であっても、それがいつ核戦争にエスカレートするかわらない以上、不戦こそ人類生き残りの不可欠の条件だといわねばなりません」(昭和59年1月26日「聖教新聞」掲載の「世界不戦」への広大なる流れを 、と題した講演(広布と人生を語る 第5巻 所収 昭和59年6月6日 223頁 聖教新聞社)と語っている。

つまりここでは、池田氏は、「不戦」が実現すれば核の脅威は無くなると勘違いしてしまっていたようだ。

ここでは核の平和利用での原発の放射能汚染の危機が消え去ってしまっているのである。それだけではなく、原発での放射能の危険性は眼中から消えて。池田は「不戦」で核の使用が止められるとと考えてこの、「世界不戦」への広大なる流れを 、と題した講演を打ち上げたのであろう。

しかし福島原発事故こそは戦争など無くして、多くの人々が放射能汚染の危機のどん底に突き落とされたのである。これから未来にわたってその子孫も苦しむことになったのである。

戦争とは無関係に、地震などの災害で原発事故が起こり、原子爆弾と同じ放射能の危険な結果をもたらすことが、平和論を主張する池田大作には当然のこと認識は困難であったのである。

公明党の原発に対する認識も創価学会の池田氏と同じかそれに順ずるものであったのであろう。
最後に、近年の池田氏の講演で、同氏の師である戸田城聖の「原水爆禁止宣言」にふれて書かれた文の解説があるのでこれを引用しておくが、これは読者各自が原著作(転載本ではなくて)に直接当たって確かめることを望む。

「核兵器廃絶へ民衆の連帯に」学ぶ(「第三文明」2009年(平成21年)11月号 88頁)という文だ。不思議なことに筆者の名前はない。

この文章から、同じ創価学会の会長の意見ではあるが戸田氏の問題意識であった原爆の核への脅威は池田氏では大きく変化して異なっていることがわかるのである。

池田氏では核軍縮と核拡散防止論が提出されて絶対禁止ではない容認論となっているからだ。
2011年3月の福島原発事故の悲劇が核の平和利用においても起こったわけだが、池田氏のこの講演に関する解説でも明らかなように、原発は平和利用であって放射能の危険性への認識は指摘されてないのである。それどころか、逆に原発の平和利用は安全視されていることがわかる。

池田氏の先生である戸田城聖氏の放射能への危機感、核の脅威というのは、弟子の池田氏にあっては原発は安全な平和利用だという幻想の中で消滅してしまているようだ。上掲載書の「核兵器廃絶へ民衆の連帯に」学ぶ、においても原発の危険性が一言も論じられてない。

創価学会・公明党が自民党と同調し与党政権となった10年間に、福島の原発事故を阻止できたかもしれないのだが、それをしなかったのは何故なのか。池田先生の指導だったのだろうか?戸田城聖の弟子が反原発勢力とはなれなかったのはどうしてなのか?全く不思議である。(本文の初出 2011年9月16日)