2013年11月6日水曜日

絶対的尊厳の欠落 9・11、広島・長崎そして福島に刻印された非人権の恐怖 

10年前の2001年9月11日の朝にニューヨークの二つの高層ビルに飛行機が突っ込みビルは粉塵を上げていとも簡単に崩れ落ちた。この直後にワシントンのペンタゴン米国防省本部にも飛行機VOL77が突入。このイメージは私に米国が原爆を落とした広島と長崎の廃墟の映像を思い浮かばせる。そしてそれは福島の地震の後の津波に飲み込まれ瓦礫の残骸だけが残る被災地の荒涼とした風景と結びついた。これらの3つのイメージが一つの焦点を結ぶのはいずれも巨大な数の人間が一瞬にして死の苦しみの阿鼻叫喚の無間地獄に突き堕とされたということだ。しかし、1人の人間がどんな金銀財宝を全世界に敷き詰めた重さよりもより重いというのではなくて、そういう相対的なものではなく、比較できない絶対的尊厳の対象であるという思想が欠落していたのである。これを糾さなければならない。

テロリストでも独裁者でもない米国であったが、広島と長崎への原爆投下という全く非人間的な悪魔の所作をおこなっている。この残忍な虐殺行為はテロリストとは無関係なところで起こった。戦時下という名目や反テロ、反独裁の美名の大儀を立てたとしても、人間殺害の非人権行為は絶対に許されるものではない。

9・11、広島・長崎、福島に刻印された恐怖とは多くの犠牲者が虚空にでも吸い込まれたかの様に跡形もなく何十グラムかの瓦礫として消え去って姿を消したことだ。その事件の後の対比的な静寂さはまるでシューレアリズムの世界のような不思議な虚無感を残す。

これらの死がより悲劇的なのは人間の視覚では確認できないものになってしまうからではないだろうか。
テロリストが原発を手に入れればそれは平和利用ではなくて、軍事的な原爆として利用されるだろう。テロリストが軍用機でない飛行機でも、ハイジャックすればニューヨークの悲劇も起こる。

つまり平和利用の原発であっても地震や津波に飲み込まれたり、リビアのカダフィのような独裁者の手に渡ればたちまちにして平和利用の安全性などは保障されなくなるということだ。原発基地は戦争の有無に関係なく危険であったということである。福島原発もこの危険を隠していた。

11日の朝、サウジアラビアのテロリストが操縦したとされる飛行機がペンタゴンへ突入し、同機に乗っていた黒人女性の妻を亡くしたアメリカの黒人作曲家は、「米国はアルカイダのビンラデンをパキスタンに乗り込んで殺害したが、逮捕して裁判にかけるべきであった」といっている。ビンラデン殺害は米国特殊部隊によってなされた。それを手放しで喜んだ人も多い中で、この作曲家の話は我々が忘れた何かを考えさせられる意見であった。