2013年11月6日水曜日

十界互具・一念三千を否定する戸田城聖の原水爆禁止宣言

原水爆使用したもは、サタン・悪魔でありこれをことごとく死刑にすべきであるこれは後に創価学会で「原水爆禁止宣言」と呼ばれることになったものだ。つまり十界互具・一念三千*の法門を否定する思想を戸田城聖が宣言している。これが戸田城聖の思想であり、創価学会に引き継がれているという有名な、「原水爆を使用したものは、原水爆禁止宣言」だ。これが外道の論議なのは、十界互具という仏法の法門において、戸田の宣言する「サタン・悪魔」は「ことごとく死刑にすべきである」という発言には見あたらないからである。

戸田のこの宣言は昭和32年(1957年)9月8日に神奈川県の横浜・三ツ沢競技場という場所においてであった。一念三千の生命は十界互具しなければ、悪者(サタン・悪魔)は永遠に悪者でありつづけ善者には変われないのである。宿命の転換は不可能で、その低い外道の思想からは、平和の実現には悪魔のサタンを死刑にし滅ぼさなければならないとする戸田のような死刑の思想が出てくるのだろう。創価学会が死刑を否定しないのはこの戸田の遺言「原水爆禁止宣言」によっているのである。

サタンという悪魔をすべて死刑にすれば全世界が平和になると戸田のように考えるのは、善はどこまでいっても善であり、悪は悪から変われないという善悪の平行線の思想がそこにあるからである。儒教やキリスト教など外道の思想と同様に悪が善に変わり善が悪になる仏法の十界互具の思想を否定しているわけだ。サタンを死刑にすれば平和になるという戸田城聖の見解は仏法の思想ではない。

これが戸田城聖の思想であり、創価学会の原点となった外道思想*の「原水爆禁止宣言」であり、その遺言を継承した池田大作の「平和宣言」の基本なのである。

またここに創価学会の戸田城聖の思想の根本的な誤りがある。十界互具を無視する外道の論議を宣言したところで、それは、正しい日蓮大聖人の仏法ではないのである。そのような仏法に似せた誤まれる思想を世界に遊説して廻っている者がいて、世界の戦争を惹起させる原因を作っているのであると「立正安国論」には説かれているのである。
戸田城聖という人は、核を使う者は「サタン」だと呼び、ことごとく死刑にすべきだと昭和32年9月8日に宣言している。

原水爆使用したものは、サタン悪魔であってことごとく死刑にすべきであるという思想である。これは一見して原水爆禁止に有効な発言のように思えるが、仏法的には外道の論議なのである。それは十界互具を否定してしまっていて善悪の二元論で解決がつくとしているからである。サタンは悪魔であってこれをことごとく死刑にすれば原水爆問題は解決すると考えている。これは正しい日蓮大聖人の仏法ではないのである。

戸田城聖は、 「それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、我々世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利を脅かすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。」 「戸田城聖先生 講演集 下」(昭和36年10月12日 初版 創価学会発行)346頁~348頁には、「原水爆使用者は死刑に」と題した横浜三ツ沢競技場で開催された青年部東京第五回体育大会での講演が掲載されている。(以下に写真掲載)

「もし、原水爆をいずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、我々世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利を脅かすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。」と戸田はいう。

戸田城聖は「その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界にひろめることこそ、全日本青年の使命であると信ずるものであります」といっている。これは戸田城聖の創価学会青年部への遺訓だともいわれている。

「戸田城聖先生 講演集 下」(昭和36年10月12日 初版 創価学会発行)346頁~348頁には「原水爆使用者は死刑に」と題した横浜三ツ沢競技場で開催された青年部東京第五回体育大会での講演が記録されている。以下に写真掲載する。


これが外道の論議だというのは、十界互具という仏法の法門がこの戸田の発言には見られないからだ。一念三千の生命は十界互具しなければ、悪魔は永遠に悪魔でしかないからである。地獄の悪魔も人間や仏にはなれないわけだ。その方途を戸田は閉ざしている。その低い外道の思想からは、たしかに戸田のように死刑が必要になってくるわけだ。死刑して葬り去る事で解決しようとするわけである。


もし創価学会が原爆の使用に反対するのなら、これまでに太平洋や大陸の砂漠でなされた核実験をやってきた国々の指導者もサタンとして死刑にすべきではなかったのか。

原爆の脅威とは実験であっても後々まで放射能は残るからだ。ところが創価学会の池田は勲章などを彼等原爆使用国の指導者からもらって喜んでいるのはどうしたことか。米国の長崎と広島への原爆投下はひとりで原爆が落ちたのではない。落とした人がいるのであり、創価学会の戸田城聖の遺言を守るならば彼等こそサタンとして死刑を追求すべきなのではなかったか。

創価学会は何をしているのだろうか、不思議なことだ。横浜・三ツ沢競技場での戸田の言葉は忘れてしまったのか?時代に合わないとして戸田の言葉はもう用いなくなったのであろうか。仏法の目からすると、もし死刑にすればすべて済むというのは、やはりそれでは誰も救われないということなのだ。

つまり一念三千の生命観からも、核爆弾の利用は良くないがそれを使用するサタンの生命を固定的に不変のものととらえた創価学会の戸田の思想こそが問題であったのである。

戸田氏における仏法の一念三千の法門の理解とは、このように外道にも及ばない幼稚な理解であったのである。キリスト教の世界でさえこの死刑は野蛮なものだとして廃止の方向にあるからだ。戸田城聖の非仏法的な思想の貧困がそこに見えている。

サタンを死刑にしてしまえばそれで問題が解決するとする戸田城聖やそれに追従する創価学会の平和論には疑問が残るのである。

それで世界が平和になるというのだろうか。先進国といわれる世界の8カ国の中に、少なくなっている死刑擁護の国として日本と米国の名前がある。逆に言うと世界の流れは死刑廃止にあるのだが、創価学会は戸田城聖が「原水爆禁止宣言」を遺訓としたために死刑反対ができないでいるということなのかも知れない。

創価学会は死刑擁護の立場は戸田の原爆を使用するものは死刑にすべきだという誤まれる師の宣言に影響されている。創価学会の草創期にその誤謬が基礎づけられていたのである。

以下の写真は、 「革命の大河-創価学会四十五年史」(上藤和之、大野靖之 編 聖教新聞社1975年(昭和50年)11月18日発行)


「革命の大河-創価学会四十五年史」(上藤和之、大野靖之 編 聖教新聞社1975(昭和50年)年11月18日発行)所収の戸田城聖氏の講演の写真。

この写真は、昭和32年(1957年)9月8日、神奈川県横浜・三ツ沢競技場での戸田城聖氏の「原水爆宣言」のもので、大変に有名だ

164頁

165頁

「それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、我々世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利を脅かすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。」 (「革命の大河-創価学会四十五年史」 聖教新聞社1975年11月18日発行)の165頁参照。と宣言している。

*十界互具・一念三千。 十界とは人間生命の諸相を10のタイプで代表させたもので、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏とするが。それらが相互に他の10界を具現しているという認識によって、一界の生命の中には3千という多くの生命が内包されているという認識である。つまり、人間や天子は神になれないとか、神は永遠に神であって悪魔にはならないというように各界が断絶して分離しているキリスト教(仏教外の教え=外道)のような各界が隔たっているのではないという思想である。一念三千とはそういう人間存在の多元性や複合性を救い上げて認識することにより、不幸を幸福へ、あるいは悪を善へ、餓鬼界を仏界へと転換することができる思想である。戸田城聖がサタンという生命をとらえて、その生けている間に変換する可能性を閉じてしまったのはこの一念三千の法門を正しく認識していなかったからだといえる。

*外道思想。 内道にたいする外道ということで、仏法以外のつまり生命の一念三千の因果律を説明していない宗教思想のことである。

(本文の初出 /2010年8月25日 )