バンセーヌのスーパーからの人質解放は17時14分に店内への襲撃が開始し、わずか3分であっという間に犯人のアメディ・クリバリーを射殺した。しかし少なくとも人質の4人が死亡した。人質は当初の5人ではなく8人がいたという。16時45分には仏テロリスト特殊部隊によって、「チャルリー・ヘブド」のジャーナリスト殺害犯2人もパリの40キロ北東部のダンマルタン・アン・ゴエル (Dammartin en Goêle)の工場地帯にある従業員50人ほどの印刷工場に逃げ込んでいたが、殺害された。フランソワ・オランド仏大統領は20時にテレビで談話を発表する予定だ。今回のイスラム聖戦主義者のテロ殺害は2002年のトゥールーズとモントーバンでのモハメッド・メラ青年による連続テロ事件と比較されて論じられている。しかし大きな違いはオランド大統領は今回の事件を政治的に利用したりイスラム嫌いやイスラム教徒を贖罪のヤギに(アマルガム)することはしなかったということだ。メラ事件は、サルコジ氏の2002年の仏大統領選挙の最中に起きたもので異常なほど時間をかけてテレビなどのメディアが騒いだ。このことで右傾化したフランス人が多くイスラム嫌いを表面化させサルコジに投票することになった。この時にフランス文明とイスラム文明を対比させてサルコジは論じている。これはフランスの共和国の精神に大きく外れることをしたのであった。
青年の名前はモハメッド・メラという。青年は市民や軍人ら7人を殺していたが、22日には200人以上の特殊警察がメラ青年の住居を包囲して深夜になって殺害した。青年の左頭部に2発と腹部に弾丸が貫通した。23日の司法委警察の発表ではその他にも多くの弾痕があったと報じられている。この一連の事件でフランス中がテレビに釘付けになった。今は、そのことで仏政府と警察が反テロ防犯の監視の不備を批判されているが官製メディアはこれを縮小化して隠そうとしているようだ。サルコジ大統領の売り物のテロ対策であったはずだが監視が機能してなかったということか。トゥールーズとその近くのモンターバンでの3度に渡るメラ青年の連続殺害テロの犯行をなぜ未然に阻止せずに見過ごしたのか?が問われている。
それは同青年が18歳の時に1年8ヶ月を刑務所で暮らした再犯者であったからだ。更に2010年にはアフガニスタンのカンダーラを訪問していて、2011年にはパキスタンに渡ってアルカイダと接触したことは仏秘密情報局(DCR)に知られていた。そのために米国はメラ青年の渡米を禁止していたがフランス政府はこの青年を監視することをしなかったとしていて、フランス国内での市民殺害テロを阻止することができなかったということらしい。この辺の事実経過が詳しく報道されてないようだ。
しかし何故なのか?大統領選挙を1ヶ月後に控えて、テロへの恐怖とその取り締まりを主張してきたサルコジ大統領のメディアでの出番が多くなっている。
殺害テロ事件の拡大化をメディアが大々的に報道してフランス国内の世論はテロへの恐怖とその批判へと大きく動いている。同時にサルコジ大統領の支持は上昇している。
フランソワ・バイル議長の民主運動(モデム)は国民の関心がテロ騒ぎに飲み込まれてしまって本当に重大なテーマが大統領選挙で話されないという状況を残念がっている。
しかし予想は裏目にでてきているようである。政府のブレーンの失策として批判がでてきていて、今ではフィヨン首相などはメラ青年を当初からテロリストとして考慮することはできなかったなどと言い出している。メラ青年の市民殺害テロを未然に阻止する事は困難であったなどとしている。
【参考記事】