2015年6月15日月曜日

「ローマはなぜ滅んだか」弓削達著 講談社現代新書を読んで キリスト教とローマの奴隷的人間支配の構造

本書は一口に言ってローマの奴隷性がなぜ存在したのかを考えた書であると言うことができるだろう。ひとつはそのローマの奴隷とは現在一般に我々が想定するアフリカの黒人奴隷のことではなくて、むしろローマなどよりも文明国家のギリシャとかフェニキア人などを殖民地にしてそこの市民たちを奴隷にして支配したということだ。ローマは弓削氏も第8章、9章、10章でローマが文明国家などと言えるものではなくて戦争と暴虐と貪欲と不正とまやかしの支配であって、平和はそれを正当化する誤魔化しであったことを何度も繰り返し語っているのが印象的でこの見方はよくわかる。言ってみれば非文明国ローマの野蛮が文明国民を支配するには、この暴力との泥棒・略奪を正当化する奴隷性が必要であったということだろう。それが現在の我々の時代までヨーロッパ文明の根幹に根づいていて変わってないということなのだ。そういう意味ではこの本は反ヨーロッパ的でさえある。歴史を学ぶとはこういう読み筋が生まれることの面白さがある。


弓削氏は最終章でローマ帝国の人種差別思想がどこから来たのかを探っている。ローマ帝国の固有の存在理由がキリスト教的存在理由と同期の創立だとする神学的な独善性が4世紀に興り、それが対外的周辺の蛮族蔑視思想を促進したという。しかしキリスト教における教義の本質論である善悪の二元論に関しての説明は本書では言及はされてない。

弓削氏はこのローマ文明の中味を話されて、ローマ人が西ゴート族ヤゲルマン人を蔑視した根拠としてキリスト教の成立期とローマ帝国の創立期が同一で恩寵的な神の意思によるものだとする解釈・主張があったことを挙げている。そこからローマ人のキリスト教的な優越性や周辺的な蛮族にたいする人種差別がうまれたのだとするわけだ。

奴隷がなぜ存在したかだが、これは隷属者にも自由と独立の権利があることに気づかせないようにローマ人が隠蔽したために気づかなかったというのだが、奴隷ははじめから奴隷ではなかったのであり、市民が戦争で負けて支配され奴隷化されたことを考えると論理に難点があるようにも思われる。市民であった奴隷がどのようにして盲目にされていたのかは本書には説明されてはいない。奴隷とは目をくじられた者のことであり奴(やっこ)のことである。

我々の時代にも通じた奴隷的人間支配の構造がローマにすでにあったのである。しかし弓削氏は本書の中で少しだけ触れられていた「蛮人=悪人=動物」論を超える為の「すべての人間の平等な可能性」論の根拠を提出する理論だが、これにはローマ人も奴隷も等しく人間であり変わらないということ。そして、人間は誰でもが奴隷にもなり市民にもなれる可能性を持っているという二つのことが、特に後者が話されることが必要だろう。