(パリ=飛田正夫6/20/2016 5:11:52 日本時間)世の中に去年の暦をめくって暮らす人はいないはずです。哲学者や思想家ならなおさらで、つねに現代の地上の世界が問題になるのだと思います。キリスト教の「愛」の誤りを指摘することが仏法での「慈悲」であり、キリスト教の「愛」と仏法の「慈悲」は一見して似ているからとしてこれ等を同じだと同一視する人は学者や文化人でも多いのです。ところがそういう人に神が地獄にいるし地獄に仏がいると言えば、即刻手のひらを翻し、それは同意できないとキリスト教徒は僧侶でさえいいだすのである。全然同じではなく別のものだと前言を翻すのです。そういうことが先日、ある学者とのやり取りであった。キリスト教の愛と仏教の慈悲が同じで一致しているとは私は言っていないのです。むしろ、これらを並べて一致を立てたがる、昨今のキリスト教徒がいるということを指摘しているのです。このことはキリスト教徒だけでなく、小乗に堕ちた「創価学会」なども、仏法を習いそこなって理解して、生命とは宇宙の法だとか宇宙コスモスが個人にあり大宇宙の生命と呼応しているなどと新議を建てたがるのである。キリスト教には個々の人間の中に神と同じ聖性を認めることはしないのです。人間が神と同じになればキリスト教は存在しなくなるからです。しかし真実の仏教は特に日蓮大聖人の仏法にあっては仏は人間でありそこに地獄の生命もあると説くのです。この革命的な仏教の思想を今は行き詰ったキリスト教徒たちが、また誤れる創価学会なども、その思想を自宗に摂り込もうと盗人の法を密かに画策している時代になっているということです。これは大乗の国である日本だけではなく、当然のこと外国でもなされていることをひしひしと感じるのである。それは、現代の人々の様々な要求や疑問に対し、人間と世界の解釈を誤ったキリスト教などが、答えられずに難儀して仏法の智慧を摂りこもうとしているということだ。これを見てキリスト教は仏教に近づいてきているなどと言って喜ぶ人であってはならない。この泥棒は玉をコピーして盗んだあとは、それは貴方の玉こそ、私から盗み取ったのだと言うにきまっているからである。これが盗法を構えるということなのだ。現代の神学の一つの傾向である。(パリ=飛田正夫2016/06/10 15:04日本標準時 日本時間)
キリスト教が、仏教の神髄を摂り込んで、それで教義の再生を謀ろうとしているのかも知れません。創価学会もそれをやって、誤魔化しと盗みの法策が暴かれて失敗したのです。実はそういう試みがあったのは日本よりも、私の住んでいるフランスなどの方が早かったのです。国外で実験的にやったのかもしれません。仏法を知らない人ばかりでしたから。いまでは世界中でやっている。そこには小乗・大乗の仏教僧や、キリスト教徒らも加担していたのです。創価学会に於いては、教理の面で教学を作り換えようとしていたのです。
この問題でその手がかりになったのが、創価学会・公明党の「生命主義」がある。これは創価学会では戸田城聖の獄中の悟りで、「仏とは生命なのだ」という釈尊の経典では「四十余年未顕真実」である「無量義経」の経典読誦とその考察から発した、戸田の誤った「悟り」の言葉だったのです。ところが戸田も創価学会もこの創価学会の生命論の原点となった戸田城聖の獄中の悟りが、「法華経」からの悟達だとして誤魔化し続けたのです。だから創価学会・公明党は悪から悪へと堕していったのは、「無量義経」の悟りを「法華経」に置き換え摩り替えたことが、「法華誹謗」になったのです。こそに悪から悪へと走った原因があったわけです。悪くなるのは当然なのです。
「無量義経」と「法華経」を同じる悪義を戸田が獄中で造ったそれが戸田の悟達だったともいえる。戸田は「無量義経」と「法華経」とは一本の前後の序論と結論のようなもので同じなのだと立てたわけです。これらが同じなく天地雲泥の差があることは仏法を多少学んだ人ならばわかるはずです。釈尊に於ける経典で「已・今・当の三説」というのがあり、「已」とは四十余年間の説法を指すわけで、「今」とは「無量義経」であり、「当」とはこれから説く「涅槃経」であった。「法華経」はこの三説超過の八経を超える「超八」の教えなのです。ここに「創価学会」の戸田の教学的な重大な誤りがあったのです。戸田城聖は日蓮大聖人の仏法の根本を理解できてなかったのです。
この戸田城聖の摂ったやり方は、アマルガムという「並べ・同時・換える」という方法で、その邪説の作り方を日蓮大聖人が「御書」で何度も指摘されているのです。
その後、戸田の弟子である池田大作は、これでは創価学会は仏法違背の邪宗団体と同じになってしまうと考えたのだろうと思われますが、その誤りを創価学会員等が気付く前に、戸田の誤りを隠して、「仏とは宇宙の法」なのだと打ち上げて立て替えたのです。戸田の悟達は創価学会の「生命論」の根拠となっていたのだが、これが誤っていたから「仏とは生命である」では困ったわけです。戸田の「仏とは生命」も、池田の「仏とは宇宙の法」も共に誤った仏教の理解である。人間の中にある小宇宙が、仏の悟りである大宇宙の法に調和するなどと、最近のキリスト教神学のような可笑しな立義になってくるわけです。こういう考えには日蓮大聖人が顕された大御本尊が隠され吹っ飛んでしまっているのです。フランスなどでも「宇宙の法」として可視化し具現化したのが「本尊」という理解で、それを実現したのが日蓮大聖人となっているわけで、これは大変な誤りなのです。
そうすると、もうこれは「日蓮正宗」伝来の仏法ではなくなってくるのです。一般他宗「日蓮宗」一派や、小乗教の教えと余り変わらなくなってくるのです。今度は、この論理をキリスト教の神学でも使えると見ている日本の学者などもいるのです。
どうしてそんな教義改変を創価学会がしたのかは、つまり教義改変することで、尊むべき「御本尊」を下げて捨てて、自宗を荘厳しようとしているのでしょう。誤れる「宇宙コスモス」を拝むわけですから、当然のこと、いくら生命浄化の勤行・唱題の祈りや、禁欲などの「歴劫修行」「次第梯橙」の「六度万行」の修行や、準備運動の前提・活動があったとしても駄目なのです。本尊が誤っていて悪魔に祈っているようなものなのです。
創価学会は仏教の教理に迷って、日蓮正宗の伝統法義では金は稼げないと思ったのか、独自の教義である「宇宙の法」を摂り入れて教義を変更させてしまったということです。これはフランスでも行われた。フランスは世界でも早かったと思います。フランスは哲学に興味がある人が多くキリスト教を固執する仏教学者や知識人が多くこれに参加したからなのでしょう。
キリスト教の神の恩寵が依然として完全な神の宇宙(天国)コスモスを手本として、この神の聖霊をモデルにしながら、「元来人間が持っていた」小成る宇宙の法を、祈りや禁欲の絶え間のない厳しい修行を以て、人間内部にも実現化しようとしても、そこに内在する聖性は、神が一人跳ね上がりしている神観の中では、絶体に人間の聖性の完成も完了も無いということなのです。創価学会の池田大作の誤りというのは、実はこの「仏とは宇宙の法」として、戸田の「生命とは仏なのだ」を繋ぎ合わせたもので、これは仏教違背の邪説で、日蓮大聖人の大石寺の三大秘法の南無妙法蓮華経の大御本尊を隠すことをしたわけです。それで創価学会はこの大御本尊のある日蓮正宗を嫌い登山しないのです。
それは次第次第に一歩一歩と階段を登るような「次第梯橙」(しだいていとう)の「歴劫修行」(りゃっこうしゅぎょう)でしかないからです。だから、神は実は人間のモデルにはならないのです。神を手本として完成化へ向かうかもしれないが、絶対に完成しないわけです。そこでの神の宇宙コスモスと人間の持つ宇宙コスモスとには、文字面は両者は似ているが、キリスト教にあってはここに絶対に超えられない本質的な異なりがあるからです。それは神と人間との絶対的差別があって、そこを乗り越えることは最後はできないことを明かさずに、隠すからです。キリスト教や創価学会では個人や社会の問題は解決できないことを知るべきです。「歴劫修行」といったり「次第梯橙」という意味は、いつまでたっても修行が永遠に続き達成は絶対にないということなのです。それは初めから決まっているということです。理由の一つには、魅力ある法だがその玉は盗んできた借り物だということです。
愛の恩恵を得るための祈りや禁欲は神の完全性をモデルとしているために、キリスト教の愛では不完全な人間側で自己否定が起こる可能性は強いわけです。イスラム教原理主義者は、神の恩寵を得るために自分の死や地上の生き物の殺害が目的化されている。非常に興味あるのは、このような聖霊の内在化を目指した祈りと禁欲の絶望的な最終段階でどうなるかということであります。神の恩恵を得るということは、目的として人間が神に近づくことが意図されているわけで、中世と同様に、キリスト教徒が神を崇拝する限りは、神が変わらない限りは、両者の隔絶の存在には、何も変化はないということです。つまり最終的に二元論の世界観は崩れてないということです。
神の「宇宙コスモス」が人間にも内在していて相似だとする考えは、キリスト教の教えには無かったことなのです。このあり得なかった考えをもって来て、キリスト教の神観に腹合わせを考えている日本の神学者たちは、創価学会の戸田城聖や池田大作がやった仏教に背いた邪説・邪義造りの手法を真似ているでようであって、非常に不思議でなりません。創価学会のような結果に成る前に、日蓮正宗の仏法を直接、学んだ方がよいのではないかと信仰者には勧めます。(文字数 ;4051)