2013年10月22日火曜日

インターネットの時代で、森本哲郎著「読書の旅」は可能なのか

副題に「愛書家に捧ぐ」とある森本哲郎著「読書の旅」(講談社文庫)によるとこの愛書家とは読書の好きな人のことではなくて本が好きな人ということらしい。「少しでも題名に気をひかれたら買ってしまうにかぎる」ということで、「あとさきも考えずに財布をはたいてしまう」人のことなのである。森本氏は良い本に出会う旅には、「この軽率さが必要なのである」(106頁)と言っている。インターネットやタブレットが普及している現在、この森本氏の主張はどうなるのであろう。良い本に出会う旅はどう可能なのであろうか。     
 森本氏は、「愛書病の症状とはつぎのようなものだ」としている。「彼が愛していたのは学問ではなくて、その体裁、外観であった。彼が書物を愛する理由は、それが書物であるから、つまりその匂いや、体裁や、表題を愛していたのだ」とフローベルの「愛書狂」からの引用を本書の257頁で提示している。

 同様に森本氏によると「その本がどれだけ読まれたか、とういう読書の歴史」を「あくまで自分がつくりあげ」なければならないということで、そのために本に赤鉛筆や青鉛筆で線を引き、また書き込みをせよと主張する(225頁)のである。確かに色鉛筆を手に持って本に線を引き自分の意見などを書き込むことは楽しいことではあるが、タブレットやインターネットの現代ではこれは困難だ。また本の匂いや所有の実在感が無い。

 実はこの色鉛筆を手にして読書するという箇所は著者が本居宣長と陶淵明の意見を対立させて論じている箇所なのである。つまりそこでは前者が参考書や解説書などを利用しての低きより高きに至る読書法を提示しているのに対し、陶淵明の理解を求めずして原書を直接に欣然とした思いにまかせて手に取るという読書法があるといっている。森本氏は後者の方を好んでいてそこに赤線青線が何本引いてあるかを問うているのである。

 このことで思い出すのは私が学生のころに聞いた次のような話である。鎌倉時代に書かれた日蓮大聖人の御書は漢文もあり理解が難しい。それで大先生が卑近な例も取り入れて易しく解釈したスピーチ集なるものを読んで理解してから難読な御書を読めば良くわかるという話しであった。このやり方を取った者は今では日蓮大聖人の御書など読まなくなってしまったようだ。解説書を通してしか読めなくなってしまったのである。宗教的誤謬がそこから生まれていた事に気づかなかったのである。

 一方で、御書には赤線などを引いて書き込みをしてはいけないが、そのコピーにならしても良いということを聞いたことがある。すでに御書がインターネット扱いされていたのかもしれない。私の読書法はそれらの教えとは全く異なったものであった。