池田創価学会が日蓮大聖人の御書を拝しながらも人々を迷わす法然先生のトリック呪術を使うというのはどういうことなのだろうかと考えた。「立正安国論」を拝しても日蓮大聖人の立場(主人)の見解でなくて、念仏法然(客人)の立場」で「立正安国論」を読んでいるのはどうしてかと疑問をもった。これが創価の世界平和運動の理論的根拠となっていて「立正安国論」を学んでいながら、逆に念仏法然先生の主張を学ぶことになってしまっていた。この点の読みにおいて創価学会が主客を転倒(てんどう)させて誤まった法然流の解釈を提出しているのは、有名な池田大作著「立正安国論講義」(日蓮大聖人御書十大部講義 第一巻 立正安国論 昭和41(1966年)年7月3日 創価学会発行)に於いてそれが指摘できる。創価学会は、「立正安国論」での客人の立場で、つまり法然の思想を継承して、仏法を転倒(さかだち)させて理解してしまったと考える。
「立正安国論」が論議される場合にしばしばいわれるのは、この書が日蓮大聖人の平和実現の理論書であるということである。この中で、主人というのは日蓮大聖人の立場であり、客人の主張とは当時の社会に多大な影響を与えた念仏法然の立場のことである。両者に於ける「立正」と「安国」の原理的及び方法論的対立が問答形式で論議されているわけだ。
池田のこの「講義」の箇所の解釈を引用すると、『創価学会の今日の発展、隆昌が恩師戸田城聖会長の獄中での不思議な体験、人間革命、広宣流布への情熱によって決定づけられたことを思いあわすべきである。「法は人に因って貴し」日蓮大聖人の仏法の興隆は、戸田前会長によって決定づけられ、そして今、五百数十万世帯の創価学会員の燃ゆるがごとき信心、広布への決意、幸福生活の実証によって、全世界に、未来永劫に流布していくべき源泉が決定づけられているのである。』(前掲書761頁)。
創価学会というのはこのように法を従にし、人を主にした「人主法従」(にんしゅほうじゅう)の視点から「立正安国論」を読み解釈して独自の仏法を立てた宗教団体といえるのである。これは経典解釈でも同じことで人師の仏教解釈からでた法然の念仏とはまさにそういう人の言葉を主にして経典を従にして読む「私はこう思う」式の私言の法門なのである。
池田が「日蓮大聖人の仏法の興隆は、戸田前会長によって決定づけられ」(前掲書761頁)という時、これは誤れる戸田城聖の『獄中の悟り』という私言によって決定付けられたということでもある。
このことを日蓮大聖人は破折されていたのである。学会員からは会長先生と仰がれた戸田城聖は『獄中の悟り』なるものを夢の中から作り上げたので、これはいわゆる夢中の法門なのである。池田大作の『わたしはこう思う、ああ思う』式のスピーチ提言集というのも法然の使ったやり口と似ているのである。
それは法華経は素晴らしいが難しくて凡人では理解しがたいと立てて、次には、それを本当に正しく理解できるのは法然先生しかいないのだとして、この先生が世間の卑近な例も取り混ぜてやさしくわかり易く噛み砕いて解釈したスピーチ集によって先ず理解すべきで、その次に難しい法華経を読めば容易に理解できますよ。という誤れる筋の手口なのである。
そのために創価学会員は御書をあまり読まずに先生の解説スピーチ集を一生懸命に読んで仏法を理解したつもりでいるが、実はこれは誤りの理解を得て逆に苦しむことになるのである。「立正安国論」によればこれでは世界平和も日本の安穏も無くなり他国から責められるのである。創価学会・公明党の責任は実はこの仏法の誤りにあったということだ。
日蓮大聖人の御書を人師の私言を基として解釈する宗教団体である創価学会の正体とは、つまり日蓮大聖人の御書を学ぶのではなくて、池田会長の言葉(スピーチ)を学ぶ団体だということなのだ。
次に、この日蓮大聖人の「立正安国論」に出てくる、客人の主張である「先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし」(前掲書749頁)の箇所だが、この箇所を講義解釈した前述の池田大作著「立正安国論講義」によると、「国が亡び、人が死んでしまったならば、仏法を信奉することができない。まず国家、社会を安定して、しかるのちに仏法をたてるべきであるとの客の言葉である。」(前掲書 761-頁)と、池田の解釈もここでは一応は「客人」の言葉なのだと明言している。
ところがこの箇所は、「日蓮大聖人御書 五大部」(監修 池田大作、編者 創価学会教学部 創価学会発行昭和50年5月3日)では次のように、解説されている。 この「池田大作、編者 創価学会教学部 創価学会発行」の「日蓮大聖人御書 五大部」では不思議なことにこれは「御書」となっているのだが、実際には半分以上の頁数は注釈と解説の文が混在されてでできている著作である。日蓮大聖人の「御書」というタイトルだが、内容は解説書と合本になってできている。つまり池田の解説書と日蓮大聖人の著作物が一本となってできているわけだ。
この著作物で私的な解説を盛り込んでみせた著者は「我々が宗教的信念に基づいて、平和運動を推進しているのは、ここによっているのである。」と、前述の池田大作、編者 創価学会教学部 創価学会発行「日蓮大聖人御書 五大部」332頁)でいっている。この文の、「ここによっている」とは、この直前の文(331頁)によると、同書の日蓮大聖人の御書本文の箇所(本文の30ページの部分)のことで、創価学会の運動論の基本的原理が「ここ」を根拠としていると言っているのである。
つまり「ここ」とは、「而るに他方の賊来って其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや、豈騒がざらんや。国を失い家を滅せば、何れの所にか世を遁れん。汝須らく一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を禱らん者か」(前掲「御書」の本文の30ページ)のことなのであるとしている。
「立正安国論」のこの御文の箇所をもって創価学会の世界平和運動の基本的原理を引き出してきているわけである。しかし、日蓮大聖人の御書を拝するに、この箇所の地の文は「主人」のものだが、「汝須らく一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を禱らん者か」の箇所は、客人の主張として理解すべきであろう。そうするとその前で主人が「若し先ず国土を安じて、現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし、忩(いそい)で対治を加えよ。」(前掲「御書」の本文の29ページ)といわれていることと矛盾なくつながるわけだ。
創価学会の編者たちの理解には無理な解釈がある。「汝須らく一身の安堵を思わば」の「汝」とは誰のことなのか?それは「客人」のことで「客人よ」といわれたわけある。「主人」が自分の話している文中でもって自分のことを「汝」とはいわないからだ。
当然のこと「立正安国論」は問答形式なので、「主人」に対する対告者である「客人」を指して「汝」といっているのは明らかである。したがって、「汝須らく一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を禱らん者か」(前掲書 )とは、「客人」の立場での主張というものを「主人」が要約して、それを貴方の言われるように「先ず四表の静謐を禱(いの)るべきものなのか」と客人の立場に疑問を呈しているわけである。このように理解するとその前の主人の言葉との整合性も取れるのである。
既に見たように、池田大作著「立正安国論講義」において、「国が亡び、人が死んでしまったならば、仏法を信奉することができない。まず国家、社会を安定して、しかるのちに仏法をたてるべきであるとの客の言葉である。」(前掲書 761-頁)と、池田自身もこれは客の言葉なのだと解釈を下しているわけだ。
日蓮大聖人の「立正安国論」において「主人」と「客人」との間で何が問題になっているのかというと、国土安穏天下泰平の実現には宗教の正邪を判別し誤りを糾すことが先なのか、それとも四表の静謐という(世界の平和・安定)が先なのかということである。これがそのまま日蓮大聖人と念仏法然の立場の相違点でもあったのである。創価学会はこの二つの立場の間で認識が揺れ、ついに「立正安国論」の解釈の次元で誤魔化すことで、法然の弟子になってしまったということだ。
つまり、この「先ず四表の静謐を禱らん者か」の箇所が、「客人」の主張であるわけだが、それを主人の主張だと誤った解釈をしてしまったのが創価学会だということである。この念仏法然に影響された「客人」の主張である先ず四表の静謐を実現させてから、つまり戦争が無くなって世界が平和になった後に宗教の正邪を糾し棟梁を決すればよいという誤まった立場を創価学会は選んでしまったのである。これを世界平和・反戦運動という公明党を出現させる王仏冥合の原理的根拠としてしまったわけだ。
それは創価学会・公明党が平和団体としての活動を正当化させるのに好都合な解釈だったともいえる。誰の眼にも無理があったのである。その無理を隠すためには、この理論の出典となったつまり日蓮大聖人の「立正安国論」そのものを解釈次元で主客倒立させた別釈を創り出す転倒解義が必要であった。こうして摩り替えのトリック(呪術)が会員の絶対的な価値となって、池田大作名誉会長のスピーチによってしか日蓮大聖人の「御書」は正しく理解できないのだと学会員を呪縛したのであった。
そのために創価学会は日蓮正宗の仏法とは合わないのである。日蓮大聖人の御書を基としてではなく、謗法の念仏法然先生の立場を継承する「客人の言葉」でもって創価学会の運動論の基本を立てたのであった。これが創価学会のいう仏法なのである。
「悪魔の法然」と日蓮大聖人は御書でいわれているわけで、それに従えば盲目にされ蕩かされて無間地獄へと連れられていってしまうということだ。それは日蓮大聖人の仏法を信仰しているようだが、実はそうではなくて別のものを拝んでいることになってしまうのである。
そのような誤れる教えを基にした宗教が蔓延すると三災七難・飢饉疫癘(ききんえきれい)という戦争や災害を万里の外より招き寄せてしまうことになるわけだ。(本文の初出 /2011年9月4日 )