2016年1月20日水曜日

パリのミッション・エトランジェーを訪ねて


ミッション・エトランジェー というのはカトリックのジュズイット(イエズス会)のアジア布教の本部のことだ。パリ右岸のモンパルナスとサンジェルマン地区の丁度中間にあるメトロのセーブル・ヴァビヨン駅の近くにある。行ってみると昔は展示品が奥の僧侶の住居の一角の地上階に置かれてあったのが、今回は地価のクリプトに移っていた。以前はセミナリストと呼ばれる僧侶らが中を案内していたが、今はガイドがいるのだといっていた。それも予約が必要だという。どうせそれなら余り面白くないと思い、一人で美術館の方を見てみた。しばらく誰もいない館内を一人で見ていると、急に階段を降りてきたのが、ここの管理人だった。写真はだめだという。ちょっと話をするといろいろ教えてくれるので、話を聞いてみた。






日本や韓国や中国、ベトナムといったアジア諸国でのカトリックの布教で遭遇した弾圧の資料が並べられてあった。特に日本の場合には島原とかで使用したとかいう踏み絵や、キリスト教徒の使うシャプレ(数珠のようなもの)と、それが使用できないので、線香を焚く鉄製の器の周囲にシャプレの文様を描きこんで気付かれないようにして、代用したものとかが幾つか展示してあった。













こういうところを訪ねても、質問に対し答えられる僧侶が出てこないとつまらない。次には予約をして出かけて行こうと思う。
隣接して本屋があり、中を覗くと日本文学やら様々な日本や仏教関係の本が置かれてあった。その中で日本へのカトリックの布教に関しての本がいくつかあった。
私の疑問は何故に、キリスト教のような生命の因果律を説いてない低い教えである宗教が、仏教のしかも大乗の国である日本に広めようとしたのかという彼らの当時における認識が不思議でならないのである。と同様に島原の人々がどうして因果を神に求めるキリスト教思想を受け入れたのかがこれまた不思議でならない。天国とか神の世界を説く宗教は地上の因果の帰結と人間の責任を回避してしまう。その因果において神の介在が最大の判定を下す恐ろしい非人間的宗教なのである。キリストは悪魔の魔性を持っているとは彼らは絶対に考えない。そこが非人間的なのである。








バック通りを挟んで反対側にある公園にはキリスト教要綱を書いたシャトー・ブリアンの肖像が置かれてあった。