2011年11月4日金曜日

ロマ人、「旅の人々les gens des voyages 」のこと、・・・偽装警察に襲われたキャンプ訪問

 「トラベラーズ」というのはフランスではロマ人のことでもあるが、それとは別に「旅の人々les gens des voyages 」という人のことでもあるようだ。

この人たちが社会のはみ出し者として嫌われたり危険視されるのは、たえず移動するために体制側が管理しにくいということがある。税金が取り立てられなかったり戸籍が把握できかったりするためだ。政治制度的な基礎を根本的に崩すからだと考えられる。その意味では社会体制を破壊する危険分子であり、逆にこの人々は体制内部での凝集性を高めるのにしばしば権力側によって利用されていることも事実である。G.ジンメルが「対外排斥と対内結束の同時性」といったユダヤ性の問題とも関係しているようだ。


しかしこの移動する最下層の人々がいることで政治体制が安定したり、また逆に体制自体が危険に晒される側面があるという王権神話の豊饒性と破壊の両義的な力動性を持つ解釈を提供してもいる。本人たちにとっては社会の境界を荒らす者たちの大ドラマでもある。

彼らロマ人がそういうドラマの主人公で、常に社会の常民的な定住者の生活を脅かしては去ってゆく。そういう旅の人々と話してみた。我々の世界の認識知では問うこともないような疑問や回答があるのにはしばしば驚かされる。ロマ人たちが世界に旅する生き方を何度か覗き見する度に、私たちの社会の価値や自由の狭小さを見せ付けられる。彼らは自分たち仲間で土地に居着いた者たちをセディマンテール(sédimentaire)化した者たちとわざわざ呼んでいるのが面白い。




偽装警察に襲われたロマ人キャンプをパリ西郊外に訪ねた


ロマ人のことが夏のころから気になっていた。2010年10月27日から28日の夜半にかけて、パトカーの警報灯や警官の制服を偽装した4人組が、パリ西近郊のポワシーの平原に野宿していたロマ人30家族を襲った、とラジオが短く伝えた。
襲撃されたロマ人のキャンプは、パリ北西部近郊のポワシーの丘陵を登ったセーヌ川を南に望む平原にあった。ジタンの高齢者が車で先導して案内してくれた。
11月2日、私は気になって出かけたが、夕暮れの闇の中でついに居場所は見つからなかった。翌日、再度でかけると、運良く「自分はジタンだ」という高齢の男性に出会うことができた。彼は当初いやがっていたが、私がこの辺まで昨夜来てあきらめたのだというと、そのほうがよかったといって、案内してくれることを承諾してくれた。彼の自動車が水先案内となり、私たちは周囲に建物の見当たらない荒れ果てた土の道をゆっくりと進んでいった。
男たちはドラム缶でストーブを作って、寒い冬に向けての準備を始めた。
ロマ人(Roms)はプロバンス方面ではジタン(Gitans)と呼ばれ、ローヌ川の下流の町タラスコンやアルルではチガン(Tiganes)と呼び方が変わることぐらいは、私も知っていた。ところが、私を案内してくれた高齢者のジタン氏によると、ロマ人はインドからヨーロッパにやってきて、東欧やフランスに定着して「マノーシュ」と呼ばれ、イタリアでは「シントウ」と呼ばれ、スペインやポルトガル、フランス南部では「ジタン」と呼ぶのだと説明してくれる。
ロマ人の一族は30家族が馬蹄形にキャンピング・カーを並べ、その中央が広い庭になっていた。婦人や子供たちそして仕事をする男たちがそれぞれ集まって動いている。
またさらにマノーシュは英国では「ジプシー」と呼ばれ、ドイツでは「ユニーシュ」と呼ばれていると、私が何もしらないと見たのか、私のノートを勝手に開いて図式を書きだした。その系統樹を示しながら、細分化されたロマ人はスウェーデンにまでいるのだといった。元が同じなので話す言葉も親戚関係にあり、「自分は多くは理解できる」、といっている。
ロマ人のキャンプでは、数人の男性が私たちを迎えてくれ、「好きなように見てよろしい」、「写真も好きなだけ撮ってよい」、といってくれた。これも顔のきくジタン氏のおかげである。昨夜この近くに一人でいた私が、たとえこの場所に辿り着いたとしても、こうはいかなかったに違いない。
キャンプの男性たちは、今夜からは夜警を3人づつ立てて警戒するという。計画は詳しくは決まっておらず、夕方にはわかるなどと話している。もう夕方に近かったが、また襲ってくるかもしれないので、ピストル以外は何でも使って防衛に出るつもりだ、といった。
4人組みはどんな武器をもっていたのか?大柄なお腹の出た黒い服の男性は、「武器は4つで、ピストルが4丁と銃が2丁だった」と答えた。空砲はどこに向けて撃ったのか?これには、「3発撃たれたが、みんな怯えていたのでわからない」と答える。
キャンプが襲撃されたことは、報道では指摘されていなかったが、現在の場所だけでなく「隣のキャンプも被害にあった」と別の男性が説明した。「ここには30ほどのキャラバンがある」という。つまり30家族ということか?と聞くと、「そうだ。みんなが親戚関係にある一族なのだ」という。子供は約40人で、大人は男女合わせて約60人だという。
写真を撮らせてくれたドゥミ・オリンピアさんは「頭にピストルを突きつけられて、服を脱がされた」と語る。 「キャンピング・カーの横板を棒でドンドンと叩かれた。怖かった。覆面をしていたので年齢などはわからない」と答えている。「ルーマニアの警察は私たちを棍棒で叩く、ルーマニアは自分の国ではない。ルーマニアには絶対に帰らない。どこか別の国で暮らしたほうがましだ」と、上手なフランス語で話した。
事件のあったキャンプのあるところはパリ近郊の北西部を蛇行するセーヌ川渓谷で、バル・ド・オワズ県と呼ばれる地方にあって、ロマ人だけでなく「旅の人々」(les gens de voyages)と呼ばれる、フランス国籍をもつキャンピング・カー生活者も一族を形成している。10年以上も同じ場所に住んでいる人もいる。このロマ人キャンプの中にも、やはり10年滞在している人がいるという。
仕事は?と聞くと、「フランスの身分証明書が無いので、仕事はできない」という。水道も電気もないようだが、食事はどうしてるのか?「食料や服をバァートー・ジョセルというアソシエーションや、カトリック教会やアベ・ピエールのエマウス、それと亡くなったコリッシュが設立したレスト・ド・クール、ポワシーやクリシー、トリール、ここからはセーヌ川下流のコンフラン・サントオノリーンの方の市町村まで、いろいろと運んで来てくれるのだ」、といった。
帰り際に、女性がキャラバンの前にいたので写真をお願いしたら、この女性が実は4人組みの1人に頭に拳銃を突きつけられて裸にされた女性であった。年はどのくらいだったか?「覆面をしていたので、わからない」、「棍棒でキャラバンの脇をドンドン叩いて脅した」といって、いまにも剥がれそうなキャラバンの薄い鉄板を手で動かして見せた。食事はどうしているのかと聞くと、ガス台はあるがお金がないのでボンベのガスが買えないのだという。
男性たちは何人か集まって、どこかで拾ってきた大きなドラム缶に穴をあけていた。何を作っているのか?フライパン?と聞くと、「ストーブだ」という。もうすぐ来る寒い冬の準備なのだろう。写真:(筆者撮影、2010年11月3日)

子供たちはフランス語は少ししか話さないが、何でも通じそうだ。うまくいえないが、ロマ人の大人も子供も他所では感じられない自然で不思議な雰囲気が漂う。












私が気が付いた時には、ジタン氏は消えていた。ロマの男たち数人が馬蹄形に並ぶキャラバンの出口のところに集まって、何かわからない言葉で話している。ジタン氏と先ほど話していたお腹の出た太った男性が私をみつけると、「クリストフならとっくに帰った」と一言いった。私一人がロマ人キャンプに取り残された。一瞬不安がよぎった。クリストフというのは私をここに案内してくれたジタン氏の名前だった。
「ロマ人支援は同胞なので当然だ」というクリストフさん。「ジタンの家に生まれたから」と、私のノートにジタンの系統を描いて説明してくれた。
私は彼らにまた来るからといって一人づつ握手をして、ロマ人キャンプを後にした。クリストフ氏は500メートほど離れた別の地区にやはりロマ人キャンプと同じようなキャンピングカーに住んでいた。キャンピングカーはここでは左右一列づつに平行させて並べてあった。大きな道路からすぐに入った右側の列の最初の古ぼけたキャンピングカーが、クリストフ氏の住居であった。タイヤが取られていて、船が座礁したようでもある。
私はお礼の挨拶に寄ったわけだが、彼は家に上がっていけと私に勧める。ビールがいいかコーヒーにするかといってくれた。私は遠慮するのが良いと思った。ジタン氏は私が椅子に腰掛けないでいるのが気になった様子で、座ることをすすめてくれた。が、それ以上の強要はしなかった。狭いキャンピングカーには長椅子があった。入ってすぐ右の窓に沿って置かれていた。その上には綺麗にたたまれた洗濯物が置かれている。
あなたはどうしてここに住んでいるのですか?と、私のとっさの変な質問が口をついた。「父親がジタンで、自分がジタンの子供として生まれたからだ」と、厚いレンズの曇った眼鏡を斜め上に向けて、立っている私に答えた。私はその率直な返答にひどく面食らった。しかしその理由はわからなかった。ジタンの私のこれまでのイメージとクリストフ氏とが一致しないためなのか?
ここのキャンプで一番きれいなキャンピングカー。掃除をしている女性
あなたはどうしてロマ人を支援するのか?あなたのすぐ隣のキャンプでは、ある男性が私(筆者)を見るなり「どうしてみんな、ロマ人ばかりを騒ぐのか?仕事もしてないのに、ここにいる我々のことも問題にしてほしい」といっていた。どうもロマ人に反感をもっていたようだ、と私は付け加えた。クリストフ氏は「それはお互いに協力しあうのが当然であるからで、ロマ人とチガン人は同じ言語で同じ根っこなのだ」と答えた。「チガン・イタリアン、チガン・フランセ、チガン・アンチーユみんな同胞なのだ」と。「4人組みの偽装警察に襲撃されたロマ人の家族を見過ごすことはできない。黙ってほっとくわけにはいかない」。
クリストフ氏は私にアルバムを何冊も開いて見せてくれた。古い幌馬車で暮らすジタンの写真やそれを曳くロバの写真。スペインにいた時の写真ではフラメンコを踊るジタンの写真があった。かって私がアンダルシアの旅をしたとき、深夜の夕食をとりながら見たフメンコを思い出したが、それよりももっと重い感じのする写真であった。
旅はしないのか?「旅の暮らしは数年前に終わりにして、今はここに動かないで住んでいる。ここのキャンピングカーはみんな私の家族なのだ」といった。キャラバン左右二列の間は狭い中庭になっていて、クリストフ氏の奥さんらしき人と他の2人の女性とが話をしていた。私の不意の訪問で気を利かせて中に入って来なかったのだろうか?
彼は小瓶ビールを飲みながら「マケドニアにサント・オリザリ市」という場所があって「唯一、ジタンが市長の町だ」と話す。ファイルを私の前に出して、「ルモンド紙の記事にも出ている」といって切り抜きを見せてくれた。日付は2005年11月3日とあった。
ロマ人の男たちが作る手製のドラム缶ストーブ。これから到来する厳寒の冬、戸外キャンプの必需品だ。

「ジタンはマイノリティーで、ユダヤ人と同じく国がない」、「全世界が私たちの国なのだ」と続けた。「迫害があるのはマイノリティーだからだ」とも話す。私はマイノリティーは迫害されるが国家の中心を倒すこともある。そのために権力から嫌われるのだと自説を投げてみたが、それで別に論争をしようとする気はなかった。
アルコールの匂いが部屋中に漂っている。彼はぶ厚い「ロベール事典2」を出してきた。彼が「ロベール事典」を持っていることに私は完全に驚いてしまっていた。狭く長い部屋はうなぎの寝床のようであった。奥の寝室と居間と台所が順番に空間的に分離されながら吹き抜けになっていた。辞書やアルバムは居間に置いてあった。
彼は「スターリンの2番目の妻はジタンであった」といった。「サルコジの前妻のセシリアは、有名なスペインのギタリストだ」とも。なにか難しい名前を持つ「ジタンの娘なのだ」といって、持ち出したロベールにも出ているとページを繰って探しあてた。しかし犯罪の根源を彼らのせいだと宣言して排斥政策をしてきたサルコジ大統領がロマ人を嫌っているのは確かであり、その妻や子供がジダンだというのはどういうことなのか?よくわからないというと、彼は「サルコジ自身もそうなのではないか?」といった。私はなにか不思議なものを感じたが、ますます理解は困難になっていった。
燭台のロウソクに火をつけて運んできたのは先ほど中庭で話していた彼の夫人であった。暗くなった部屋のテーブルの真ん中にそれを置くと、何もいわずに外に出て行ってしまった。クリストフ氏がかなり高齢であることがよくわかった。
ロマ人のキャンピングカーの中。狭いがどの家も整頓されている。
黒い服を着たお腹の出た男性の子供たちと別の家族の子供たちとは一緒のキャンプにいる一族なのに、なんとなく兄弟単位、家族単位でまとまっているように見えた。いっしょに遊ばないのは何故なのか?などと勝手な想像を巡らせていた。黒い服の太った男性は子供が4人いるという。そして全部女の子なのだといった。この男性は自分の名前をいわなかったが、私は別に気にもしていない。取材されているのだから警戒するのは当然なのだ。
彼が家の中を見せてくれるというので、ついていった。案内されたキャンピングカーの内部は狭く少し暗かった。よくみると小奇麗に整頓されている。これが私の第一印象だった。子供のためなのだろうか、かわいいデッサンがキャンピングカーの内壁に飾ってあった。彼は車の後ろに私を誘った。誰も見てないと左右を確かめている。「お金が必要なのだが、あるか・・・」と私に聞いてきた。私はお金はないのだというほかはなかった。
男たちがドラム缶で作ったストーブは、実際に部屋の内部に備え付けられていていた。まさに鎮座しているという風で、キャンピングカーの中の暖炉とは思えない。ひどく人間の暖かさを感じさせるものだった。長く細い煙突がキャンピング・カーの天井へと伸びて屋根から突き出している。私はもういちど男たちが作っているドラム缶ストーブを見たいと思った。まるでキャラバンのようなキャンピングカーが並ぶ、その一番西側の奥へ出かけて行った。
部屋の中に黒いドラム缶ストーブが見える。
鉄板は円形にギザギザに切られてある。そこに煙突がつくのだと思った。ドラム缶とストーブの蓋になる部分は溶接がされてなく、金属を細かくいくつも折り曲げて胴体に押さえ込んであった。そのことを製作中の男性に話すと、彼は喜んで「わざとそうしてあるのだ」といった。私はうなずいてみせ身を乗り出して彼らの輪の中に入っていった。鉄の固まりには小さな扉があり、それが蝶つがいで開閉できるようにハンマーとヤットコで曲げる作業をしていた。電機の回転式円盤ヤスリが使われていた。ドラム缶のストーブの扉になる開口部はこれであけられていた。発電機があるのだろう。
わたしはクリストフ氏に、今日のニュースではリヨンの町でロマ人が機動隊のブルドーザーによって棲家を壊され排斥されたと話した。午後にはラジオでパリ南東部近郊にあるクレテーユでもロマ人が追放されたことが報道されていると。クリストフ氏は、リヨンの話は知っているがクレテーユのことは知らなかったと答えた。彼はここの地方新聞に載った記事だといって「ロマ人キャンプの警察偽装による襲撃事件」の切り抜きを見せてくれた。今日3日の記事で、タイトルには「トリエル・シュール・セーヌ 下劣な暴力の襲撃に、ロマイブリーン(人権擁護団体)が憤慨」とあった。私は帰り道にどこかの町でこの「イブリーン県の手紙」という新聞を手に入れようと思った。